8月30日、はるばるアメリカから kindle が届く。
kindle を触るのは初めてではないけれど、改めて、e-ink の読みやすさに感動する。
コントラストも素晴らしいし、文字の大きさが自由に変えられるのも助かる。
アメリカで kindle の利用者が50代60代が中心であるというのも納得だ。
手始めに The Los Angeles Times, The Mainichi Daily News を講読してみる。
パソコンで講読を申し込むと、勝手に kindle に届く。
(もちろん kindle から買うこともできる)
ネットもパソコンも意識する必要のない仕組みが素晴らしい。
仏英辞典を購入。これも自動的にダウンロードされる。
これでフランス語の本を読むときも、辞書引きが簡単になる。
電子書籍端末として、読みやすさ、購入の容易さ、バッテリーの保ち、など、システムとハードウエア両面で、すばらしい作り込みだ。
日本で電子書籍の議論をするときに、この amazon の仕組みは、到達すべき最低限の基準として考えていくべきだと思う。
Amazon Kindle を基準に考えたとき、日本語入力、縦書き、ルビ、など日本固有の解決すべき課題はある。
それらはそれらとして解決するとして、そのあとにできる、読むときの端末の見やすさ、使い勝手、本に出会う場所としての電子書店の品揃えや使い勝手、買うときの決済システム、など、それぞれの在り方は、amazon の利便性を下回るのではだめだ。
このような優れたすでにお手本があるのだから、日本の出版業界には、早く日本語の書籍のファイル形式やオーサリングシステムを確立して、少なくとも amazon を下回らない使い勝手を提供してもらわないと困る。
そもそも文字だけの本に関しては、縦書き、ルビ、など、すでに技術的な問題は青空文庫などで解決済みであるはずだ。
時代は「どれだけ人と金をかけてやる気を出すかどうか」という実行の段階に来ている。
kindle では、カラー写真や映像は取り扱えない。
しかし、年間8万タイトルも発行されている日本の書籍の多くは文字だけの書籍であるはずだ。
電子読書端末がソフトウエアでアップグレードできる性格のものであることを考えれば、それらの対応は後からでもできる。
大事なことは、メインストリームである文字だけの電子書籍を、どれだけ早く十分な品揃えで、きちんと流通に載せていくことができるか、だろう。
文字だけの書籍でインフラが揃っていき、市場が立ち上がっていけば、そこに、あとから雑誌やマルチメディアコンテンツを載せることはいつだって可能だ。
「電子」なんだから、あとからアップデートすればいいのだ。
早くキンドル(または同様のデバイス)で日本の本をどんどん読みたい。
さっそく100円ショップで買ってきたポーチがぴったりサイズ
論評せず、まず、見る聞く。
そしてずっとずっと考える。
少なくとも彼を非難するのは正しくない。
戦争では、勝者も被害者である。
生存する最後のエノラゲイ乗組員へのインタビュー(英語)
大学の次に向かうのは、横浜元町。
午後8時少し前、小説家の山口芳宏さんと石川町駅で落ち合い、駅近くの沖縄料理店で飲み始める。
主な話題は、税制を中心とした国政の枠組みについて。
山口さんは、この議論をするために、財源を明確にするためのデータと、政策としての選択肢をまとめたメモを印刷してもってくる念の入れよう。(笑)
僕はこういう話は大好きなので、ほぼ4時間、二人で国の政策のオプションと、全体的枠組みについて議論した。
こうすれば50兆円が確保できるから……、みたいな話を居酒屋で延々4時間やる。
割り勘で4400円くらいの勘定だったところ、太っ腹の山口さんは、「僕の方がたくさん飲んだから」と4000円にまけてくれた。(笑)
推理作家の話は、大きくて細かい。
午前0時過ぎ、店の前で別れ、帰りは元町中華街駅から帰宅。
午前中、珍しく家の電話が鳴る。
月曜日に行った内科の井上冬彦からで、検査の結果を教えてくれる電話だった。
1月の検診で出ていた肝臓関係の検査値や血糖値は正常に戻っていた。中性脂肪とコレステロールはやや高い。
何はともあれ、悪い方に坂を転げ降りてはいないようだ。
少し遠回りをしながら徒歩で仕事場へ出る。
あまり調子が上がらず、マンションの理事会の仕事とか、そのほかメールの返事を書いたり。
午後8時から午前1時まで5時間、事務的なことをしながらustream で、孫正義x佐々木俊尚の対談を聞く(見る?)。
エンドレスでとことん議論しましょう、という設定は、とてもテレビではできない。こういう手を加えない一次情報こそが面白い。
それにしても、自分の理想と能力とで、社会を変えていこうという志のある人は素敵だ。
そんなわけで、帰宅は午前2時過ぎになった。
昨日、プリンターのトナーが切れた。
買ってからちょうど一年。
最初に入っていたトナーは容量が少なくて1000枚しか刷れないのだそうで、そういえば、紙の消費からいって、1500枚弱くらい印刷している。
昨日の午後5時過ぎに amazon で注文したら、今日の昼前にはもう届いた。
便利な世の中だ。
いまは、食べ物でも、家具でも、なんでも通販で買える。
だから、ほんとうは年寄りこそ、パソコンを使うべきなのだ。
使っていない人はなかなか信じられないみたいだけど、人とのつきあいも、パソコンがあれば対面よりもむしろ深いつきあいができる。
どんなに仲がいい友人がいたとしても、ふつう、毎日会うことはできない。病気になったり足が悪くなったり離れていたりすればなおさらだ。
ところが、毎日、互いの近況がわかっていて、驚いたことうれしかったこと怒っていること、そんなことを共有している人が、僕には何十人もいる。
パソコン通信を始めた1986年くらいからだから、「滅多に会わないけど、お互いの日常生活や家族のことをすごく詳しく知っている20年来の友人」というのがたくさんいるのだ。
tama
たまに近況を聞くんじゃない。毎日毎日、そうしてつきあっているのだ。
その間に、結婚したり離婚したり子供ができたり病気になったり元気になったり息子や娘が結婚したり、喜怒哀楽を共有している。
職場の友達より、学生時代の友達より、もしかしたら家族より、親しくしている。
たまに結婚式に呼ばれたり、結婚式の司会をしたり、温泉に集まって一緒に遊んだり、いろいろな形で直接会うこともあるけど、基本は電子のつながりだ。
そんな仲間たちも20年前より20歳年取っている。
でも、このまま「独居老人」になったとしても、全然、孤独じゃないと思う。
高齢化社会になっている。
高齢者はパソコンが苦手、なんて、高齢者自身も周囲も決めつけないで、パソコンとインターネットが使えるかどうかで、日常生活の質がまったく違うってことを理解してくれたらいいと思う。
エンジニアだった僕は、心からそう願っている。
ただ、その先、「文章で何かを伝える」ことができるかどうかが問われるのは確かだ。
パソコンは、少なくとも運転免許を取るほどの努力をすれば、誰にだって使えるようになるけれど、自分の思いや考えを文章で伝えることができない人がその能力をつけるのはは簡単ではないかもしれない。
だから問題は「デジタル・ディバイド」ではなく「国語力・ディバイド」なのかもしれない。
午後4時過ぎ、遅いランチを食べた帰りのことだ。
途中に通りかかった路地の奥。
風俗店の外に女性が一人で立っていた。
あたりは風俗店の密集地。
女性が通り過ぎることはありえるが、風俗店の外に立っているのは、いくつかの特殊なケースに限られる。
〈彼女は、中から出てくる人間を待っている〉
〈出てくるのはおそらく男で、いまなにがしかの料金を払っているのではないか〉
仮説を立てた推理作家は一旦通り過ぎ、電話をかける振りをして立ち止まる。
さっきの女性が、推理作家を追い越していく。
思った通り、若い男性と一緒だ。
推理作家は50mほど間を空けて尾行をはじめる。
前に某業界風の男性がやはり同じルートをたどっている。
〈もしかしたら彼はガードについているのかもしれない〉
商店街へ出たところで、急に腕を組む。言葉を交わしながら、少し進んで今度は手を繋ぐ。
それ以降、一見したところ、仲のよいカップルに見える。
カップルは、商店街をまたいで次の通りを左に曲がる。
〈やっぱり〉
100mほど先に、ラブホテルがある。
その前まで来て、その男女は女性がリードするかたちでホテルに入った。
業界風の男はそのままホテルの前を通り過ぎ、推理作家は手頃な路地を曲がってその場から離れた。
恋人同士なら、昼下がり、風俗店から出てそのすぐ近くのラブホテルには入らない。
千葉県にある「いすみ鉄道」が自腹で700万円の研修費を払って運転士になりたい人を募集している。
3年前に「D列車でいこう」(徳間書店)に書いたことが現実に起きてきている。
いすみ鉄道の記事(毎日新聞)
『D列車でいこう』(徳間書店)のお求めは こちらから
google 書籍電子化が、日本を除外することになってしまった。
日本文芸家協会は反対をしていたみたいだけど、僕は賛成だった。
google で電子化してくれて、売れたら63%印税をくれる、という条件だ。
拒否したければ、拒否できる。
ただし、期限までに拒否しなければ、了解したとみなす。
最後の一行は、たしかに、一方的なやり方だけど、悪い条件じゃない。
本来、出版社が横断的にやるべきことを、google がやってくれている。
本が売れないなら、電子書籍にして絶版なしにしたほうが、みんな幸せで絶対に儲かる。なのに、反対する出版人がいる。
わけがわからない。
すでに絶版になっている本も、読めるようになる。
読者も著者も、みんなハッピーな話だ。
こうやって日本はまたガラパゴス化の道を歩み、構造不況の出版界は新しいビジネスチャンスをみすみす失ってしまった。
「立ちん坊」といえば、街角に立っている娼婦のことである。
阿川のスタジオの前の大岡川を渡ってすぐの若葉町あたりには、日によってかなりの「立ちん坊」がいるのだけど、先日、見かけたのは座りんぼう。
「オニイサン、一万円。オマンコもできるよ」
地べたにしゃがんだまま、こっちまで聞こえる大きな声で道行く人に話しかけている。
周囲に聞こえる大声で誘われたら恥ずかしくて「客」になりにくいよなあ。
一万円払って彼女と何かしたいかなあ。
あんな大きな声で商売して、警察に捕まらないのかなあ。
まあ、人それぞれってことですね。
川のこっち側も、野毛に向かっていくと小規模なホテル街があって、そのあたりのごく狭い一角に、女装の男娼が立っている。
黒いゴシック系ロングドレスで太っている人。
華奢で、必ず黒いストッキングを履いている人。
この二人はよくいるんだけど、このあいだは、毛糸の帽子を被った「普段着のシャンソン歌手」風の長身の人。
そういえば、ホモセクシュアルと言えばフランスは本場だし。
まあ、人それぞれってことですね。
小説家という職業がビジネスモデルとしてどんなものか、意外と知られていない。
売れっ子作家は必ず忙しいけれど、その逆は成立しなくて、忙しい作家が売れっ子だということにはならない。(阿川が忙しいのがまさにそのよい例だ)
仮に毎日毎日午前9時から午後8時くらいまで働いたとして、書き下ろしの原稿料や初版印税だけでは、相当がんばっても売上500万円を超えるのは難しい。
会社員と違って、そこから経費を引いたのが「年収」になるわけなので、手取り収入は、まずまず成功している人で大卒初任給程度。
職種として考えたとき、サラリーマン以上に稼ぐのはかなり大変なことだ。
単行本が文庫化されたり、増刷がかかるようになって、(つまり、新しく書かずに、以前書いたものから再び印税が入ってくるようになって)初めて「労働時間に見合った」収入になるという感じ。
法律で定められた神奈川県の最低賃金は766円だけれど、小説家の時給って、計算してみると、それよりも遥かに安い。
(経費を控除してしまうと、たぶん、時給100円とか200円)
ところが、ある日突然ベストセラーになると、売上200万円のときと経費は同じで売上が数億円になったりする。
忙しくないと生活できる最低レベルにならなくて、しかし、そこから先、労働時間や忙しさと収入はほとんど無関係。同じ労働時間でも、人によって収入が100倍はちがう、というそういう商売です。
例えるならプロ野球選手あたりが一番近い。
日本の二軍の選手も大リーグのスター選手も、働く時間は変わらないけど、年間収入は200万円から20億円くらい差がある。
似ているのは当然で、どちらも労働時間とは関係なく、身体ひとつで生み出せる経済的価値で収入が決まる仕事だから。