社会/経済

原発事故を経験して二年たった長崎原爆の日に思うこと

 我々日本人は核兵器による被爆という人類唯一の経験をした。
 さらに、地震と津波をきっかけに引き起こされた原子力発電所の事故を経験した。
 原爆による広島長崎での被曝は、多くの人に、長期にわたって健康へ大きな影響をもたらした。
 その影響は日米共同の研究機関によって現在に至るまで調査研究が行われている。
 (放射線影響研究所 最近の年間予算約30億円 など)
 この研究は、「放射線によってこんなに健康に影響が出る」というデータと同時に「このくらいの被曝では影響が出なかった」というデータも、現在までの68年間という長い期間と膨大なサンプル数をもとにわかっている。
 その調査解析は、被爆時年齢区分、爆心地からの距離他による被曝量の見積、などを含む。
 戦争の不幸な結果により、我々は、被曝の、危険なゾーン、グレイゾーン、そこからさらに遥か下の安全ゾーンについて、十分なデータをもって科学的統計的に知ることになった。
 我々は、被曝量や被爆時年齢ごとに「60年後までの期間に人体にどのような影響があるか」について、(理論的にではなく)実証データをもとに相当わかっているのである。
(何故か、低線量、子ども、長期、について「わかっていない」とう誤解が広がっているけれど)
 その知見を活かした上で、次の問題は福島の原発事故によって、それぞれの人の被曝量が、グレイゾーンにあるのか、それよりずっと少ない安全ゾーンにあるかを正しく見積ることだ。
 空間線量、除染のデータ、食品の汚染量、などをを含む、現在までの調査では、幸いほとんどの人が安全ゾーンであることもわかってきた。
 その人たちがしっかりした知識で安心して暮らせるようにすることが重要だ。
 危険領域の被曝量、グレーゾーンの被曝量について、継続的に健康診断を続けて早期の適切な措置を取ることが重要であるのと同時に、安全なのに不安に脅えてQOLの低い暮らしをする人々を減らさなくてはならない。
 我々は核兵器による被爆という経験をした結果、放射能の危険性の程度について、かなり網羅的な調査によるデータを得る機会を持つことになった。
 放射能の危険を知るとともに安全範囲についての知見もきちんと活用して原発事故の被害を適切に受け止めたい。
 それが原爆の体験を今に活かす道だと思う。
【念のため追記】
 ある値以下の被曝による危険が少ないことは、なんら東電や政府の責任が小さいことを意味しない。安全な人を危険だと水増ししなくても、事故は重大であり、事故はまだ続いていて、その責任も重大である。

桜宮高校のこと

 桜宮高校の体育科の入試中止について、「受験生が困る」「進路が狭められる」「橋下市長の横暴だ」という意見を聞くことが多い。
 確かに桜宮高校への入学を志望していた生徒にとっては一大事だ。
 けれど、入試をするには「入るに足る学校である」ことが最低条件だ。
「入らない方がいい学校」のなら、志望者を受け入れてはいけない。
「受験生がかわいそう」論はその点が抜け落ちているように思う。
 部活顧問の暴力と、部活で冷遇されることで、アスリートとしての進路に大きな影響があること、それを苦にして自殺をした主将がいた。
 顔が腫れ上がるほど30-40発殴るという暴力が「強くなるために必要な体罰」であるはずはない。
 であるのに、この高校では黙認されてきた。
 校長も教師も保護者も、全員、そうした事実を知りながら黙認してきた。
 バスケ部が強く、顧問が18年のあいだ対外試合での実績があるということにより、犯罪が黙認されてきたのだ。
 一人の暴力教師がいた、ということではなく、暴力を誰も止めない学校だった。
 部活が強くなるなら、暴力教師が生徒を殴ってもよい、と皆が考えていた。
 あるいは、そうした実績がある故に、おかしいと思ってもそれを正せない人たちの集まりだった。
 教育とは「何が正しいか」を教える場だ。
 同時に、「間違っているときはそれを正す」ことを学ぶ場だ。
 対立するものの中から、適切な優先度を判断する能力を学ぶ場だ。
 それは、スポーツで活躍することよりも遥かに重要な、人生の原則だと僕は思う。
 しかし、この学校では、その大原則が教えられることなく、おかしなことが行われているのを知りながら、ずっとそれを集団で許してきた。
 一人の暴力教師の犯罪ではなく、その犯罪を黙認することをよしとする学校だった。
 入試を実施し、新入生が入ってくるまでに、この学校があるべき姿に変わることができるとは思えない。
「先生は悪くない」「とにかく入学したい生徒の希望を叶えるべきだ」
 そういう声がいまだに公然と聞かれる場所は、教育の場所としてふさわしくない。
 本人が「希望している」からといて、教育の場としてふさわしくない学校に新たな生徒を受け入れるべきだろうか。
 受験生の意志を尊重するためには、受験生が正確な情報から冷静に判断できることが前提となる。
 しかし、正確な情報はまだない。学校の内情を十分知ることもできない。
 有名校のバスケット部に入ることに目が眩んだ中学生とその親に、この状況下で冷静な判断などはできない。
 冷静な判断ができない状態の中学生の「本人の意志」は、学校が危険で教育にふさわしい場所にもどることができるかどうかわからない状況で、それだけ尊重すべきなのだろうか。
 そうした「本人の希望」を理由に適切が教育が行われる確証のない場所に中学からの受験生を受け入れることは、とても無責任なことだと思う。
 入試中止は、不祥事を起こした学校への「罰則」などではなく、十分な教育ができない学校へ新たな生徒を受け入れない「防波堤」だ。

イタリア生活、よいところ悪いところ

イタリア(ベネチア)にほぼ3ヶ月住んでみて、気づいた所をまとめて見た。
【イタリアの生活のよいところ】
 食材がだいたい日本の値段の4分の1、種類も豊富で美味しい。
 ワインが1リットル200円くらい。
 食材などは量り売りなので無駄が出ない。
 包装が簡単なのでゴミがあまり出ない。
 個人商店が多く物を買うのが楽しい。
 広場があって地域のコミュニティがある。
 近所の音や声がよく聞こえる。
 電話やネットも安い。
 文化や芸術も天こ盛り、値段も安い。
 人々がのんびりしている。
 暮らし方の種類がいろいろで、他人に干渉しない。
 完璧なサービスを仕事を期待するあまりに、そうでないことに苛立ったり、他人の出来の悪さをあげつらったり、そういうピリピリした空気がない。
 ちょうどよい加減にいい加減。
【イタリア生活のよくない(?)ところ】
 壊れたものはなかなか治らない。
 色々いい加減。
 いちいち長い行列ができる。
 列が短いからといって時間がかからないかどうかはわからない。
 (自分の番が来たら必要な時間をたっぷりとりたいから、窓口で長く時間を使う人がいても互いに許す)
 近所の音や声がよく聞こえる。
 (迷惑をかけないように息をひそめて暮らすのではなく、お互いに迷惑かけ合い許し合う暮らし)
 商店の営業時間がまちまちで昼休みもあるので、個別に営業時間を知っていないと買い物ができない。
 夜中には何も買えない。(コンビニはない)
 公的機関の情報がしばしば間違っている。
 掲示や公式サイトではなくいちいち人を辿って確かめていかないと正確な情報、必要な情報が手に入らない。
 (「わかんなかったら聞けよ」方式:情報の基本は口伝?)
 (現場にマニュアルもないから、訊いて担当者がわからないとき、担当者は知っている誰かに順番に聞いて回る。だから窓口でやたら時間がかかったりする)
 (はなからものごとを文書で周知徹底しようと思っていないみたい)
 お店も話をしないと欲しい物が出てこない。
 (まさかないだろうと思って訊いてみると、びっくり、奥から出てきたりする)
 でも、すべて最初からそういうものだと思っていれば、特に問題でもないから、悪いところはとりたててないともいえる。
 ようするに、ものごとを最短距離で効率的にやろう、などという野望を持たなければ、何も問題はない。
「完璧」はいろいろ高くつくから、完璧を目指そうと思っていない社会。
「いい加減」といってもずるいのではなくて、「お互いに不十分」なのを許し合っているからフェア。
(こっちはちゃんとしているんだから、そっちもちゃんとしろ、と迫ったりしない)
 その結果として、とても暮らしやすい社会ができている。
ちなみに、
 電気料金は日本の1.5倍くらい。
 一人当たりGDPは日本の7割くらい。
 原発をやめて高い電気料金になって、GDPが7割くらいまで下がった日本の暮らしを考えたとき、十分、幸福に暮らせるんだよ、というロールモデルになっているかもしれない。(もちろんそう簡単には比較できないのだけれど)
 どっちにしろ、いまの日本にいるよりずっと暮らしやすい。
 できれば日本に帰りたくない。

名取市閖上と川内村

 今回の旅行で、僕は、宮城県名取市閖上と福島県双葉郡川内村の二つの対照的な被災地を訪ねた。
 川内村は福島第一原子力発電所30km圏の中でも放射線量の低い場所だ。
 地震で亡くなった人はいないけれど、住民の9割以上が避難してしまっている。放射能は低くても、仕事もできないし、生活物資も不自由で、ひどく暮らしにくくなっているのだ。避難しないといろいろなお金ももらえなかったりもするらしい。
 村はほとんどの建物の窓は閉め切られ、カーテンも閉まっている。ゴーストタウンでみたいな町に、点々と人のいる場所がある。人のいる家があるとほっとする。
 残っている人は必死に今までと同じ暮らしをしようとしているけれど、家も壊れず、自分の周辺に何の目に見える変化もないけれど、目に見えない放射能によって、人がいなくなり、その結果、暮らしが変わってしまった。
 おそらく将来も変わってしまっている。
 あたりは岩盤の上にあり、いろいろな場所を見せてもらったけど、ほんとに地震の被害は少ない。横浜と大して変わらないといってもいいくらいだ。であるのに明らかに「被害」を被っている。
 一方の名取市は、人口の一割の人が亡くなり、家も店も会社もなくなってしまった。町は跡形もなく消えてしまった。
 見かけ上、何も変わっていない川内村とは対照的だ。
「津波の人は、3月11日で災害が終わっているけれど、福島はいまも災害が続いている」
 福島の人がいうのを聞いた。
 確かに、閖上ではほとんどの土地はから瓦礫が取り除かれ、半壊の家屋は解体され、新たに整地されて更地になっている。
 家も作品もすべてなくしてしまった名取の icoさんは、新しい絵を描き始めているけれど、川内村の人は何もできずにいる。
 川内村では、ほとんど何も壊れていないのに、自分の努力で災害から脱出できるという希望がもてない。希望をもつとしたら、村を捨てて別の土地で人生をやり直す決心をしなくてはならない。
 どちらの災害も大変なことであり、災害の程度を比較することは無意味だけれど、原子力発電所の事故という災害が、いままでの種類の災害とはちがった性格を持っていることだけは確かだ。

反原発の敗北から

 原発の事故で多くの人の健康と心と財産が脅かされている。
 いままで、僕は原子力発電所を安全だと信じることが一度もできなかった。
 科学を学んだものとして、安全であればありがたいというわずかな期待を込めながら、いろいろ調べてきた。
 原子力を推進している機関に正式な質問状を出して回答をもらったりしても、やはり危険であるという結論は変わらなかった。
 何十年と危険だと思っていたのに、ついに大きな被害を出してしまった。
 結果的に、僕にとっていまの事態は「反原発運動の敗北」である。
 なぜ原子力発電所の建設と運用を止めることができなかったのか。
 地震が起きた日から、ずっと考えてきた。
 原発に反対する人の意見を毎日大量に見たり聞いたり読んだりしてきた。
 世の中でこれほど多くの人が危険について指摘し、運動をしてきたというのに、なぜ、原子力発電所がこれほどたくさんできてしまったのか、それを改めて考え続けた。
 当然ながら、原子力発電所は「エネルギーが大量に必要である」という前提から始まっている。
 その前提を疑うことなく、だから原子力発電所は必要なのだと言われ続け、その前提を崩すことができなかった。
 炭酸ガス排出がよくないというもう一つの前提がそれを補強した。
 そして、他の発電手段が技術的に、あるいは、経済的に不十分であるという前提が加えられた。
 原子力発電所は安全である、という絶対的な前提を基礎にして、推進されてきた。
改めて前提を並べてみよう。
1)電気エネルギーが大量に必要である
2)火力発電は炭酸ガスを排出することで環境を破壊する
  (石油石炭天然ガス資源の国際依存というリスクも存在する)
3)太陽光、風力、潮汐、地熱などによる発電は技術的に未熟で経済的にも成立しない
4)原子力発電は安全でクリーンである
 今回の事故によって、4)が成立しないことは明らかになった。
 仮に今回の事故を教訓に改善が為されたとしても、それで万全であると言い切ることは不可能だと僕は考えている。
 どんな事態を想定したところで、人の創造力は経験以上には膨らまず、原発事故の被害の及ぶ規模や年月からいって、経験したときにはもう後の祭りだ。
 想定できる人為的ミスについても同様だ。
 しかし、時間が経てば異なる見解も表明されるようになり、ふたたび原子力発電所の建設を推進しようという動きはでるだろう。
 絶対安全などということはあり得ないと考えるし、そもそも危険因子は自然災害や偶発的な事故だけでなく、テロや戦争など意図的な攻撃の標的となることを考えれば、安全であるはずがない。
 ミサイルや自爆航空機の衝突も十分あり得る。
 原子力発電所作業員や制御システムを運用する人間が故意に事故を起こそうとする可能性も否定できない。
 少数の悪意をすべて予測し、すべてに対策を取ることはそもそも不可能だ。
 そのような危惧は、新しいものではなく、ずっと表明され続けてきた。
 であるのに、原子力発電所は作られた。
 その事実を前提に考えると、安全性の議論とは別に、上記の、1-3をきとんと問い直さなくてはならない。
 安全であるという前提以外の、そもそもの原子力発電所建設の前提である1-3について、長期間、すべて問い直しつづけて、いま僕自身は、この前提自体があやまっていると考えている。
 これについては、時間を作って別の機会にできるだけきちんと述べたいと思う。
 それはそれとして、1-4のすべての前提が否定され、日本中にどれだけ原子力発電所建設反対の人が多かったとしても、我が国の社会システムにおいては、発電所を作りたいと思う少数の人が原発立地の少数の人と合意しさえすれば、原子力発電所の建設が可能なのである。
 あらゆる原子力発電所は、そのようなシステムの反映として建設されている。
 原子力発電所の建設に反対し、本当に建設を止めるためには、この点に注目しなければならない。
 いままで、僕を含め、原子力発電に反対する人は、主として建設の主体である電力会社や政府に対して議論を挑んできた。運動家たちの反対運動のターゲットも、電力会社や政府だった。
 しかし、たとえ彼らを論破しても原子力発電所は止まらない。
 実は原発を推進する意志を持つ人たちにとっては、反対運動をそこそこに受け流して、建設地とだけ話をすればよかったのだから。
 建設地の人たちが一枚岩で両手を挙げて賛成してきたわけではないことも知っている。原発の事故の責任が建設地の周辺の人々にあると責めるつもりもない。
 福島を始めとする原発立地には、その地域ごとの事情があり、結果として原発建設を受け入れる決断をする事情があった。
 つきつめれば経済の問題だ。
 雇用、税金、補助金、交付金、その他の通常の地元の経済、そうしたものに、原子力発電所を受け入れようとする本当の要因があった。
 原子力発電は一世代で背負うことができないほどに危険であり、やめなければならないと僕は思う。
 今後も引き続き、原発の建設や運用を阻止するためには、立地地域のそうした事情を原子力発電所以外の手段で解決する答を用意しなければならない。
 そうでなければ、日本のさまざまな地域で「背に腹は代えられぬ」と考える人たちがこれからも出るだろう。建設したい側の人たちは、その人たちにアプローチしてなんとか原子力発電所を動かそうとするだろう。
 以前も、現在も、多くの反原発の人がしているように、電力会社や政府に向けてだけ反原発運動をしても、原発は阻止できない。
 原子力発電に反対する人は、僕自身も含め、そのことを肝に銘じなければならないと思う。
 

国難

 水道の水に「乳児が飲むのに不適」という放射性ヨウ素が検出された。
 乳児がいない人が買い占めに走ると、乳児が飲む水がなくなって彼らを被爆させてしまう、という風に考えない人が、ごく一部とはいえけっこうな数いるのだということがあからさまになって、暗い気持ちになる。
 僕はずっと原発に反対してきたし、先の選挙で民主党に投票していないし、そもそも政治的権力がウソやごまかしに満ちているということも知っている。
 だけど、いまは政府の批判はしない。
 若い人はともかく、56歳まで選挙権を持って生きてきて、こういう国になっていることに、僕は責任を感じている。
 僕の望んだ政府であったことが一度もなくても、民主主義の中に生きている僕が、56年かけてこんな国しか作ることができなかったのは、紛れもなく僕自身の責任でもあるのだ。
 僕だけの責任ではないにしても。
 たとえ、政府の発表する放射線量がウソで、その結果、僕が被爆して命を縮めたとしても、僕はそれを自分の為したことの結果として受け入れる。
 (むろん、僕自身の判断がきとんとした根拠をもってできれば、それに従って行動するけれど)
 日本が落ち着きを取り戻したら、この国の政府を批判もするし、どうしてこういう国になってしまったのか、多くの人と話をしながら考えていきたいと思う。
 けれど、いま、政府の批判はしない。
(たぶん、愚痴は言うと思うけど(笑))
 むしろ、どうしたらいいのか、多くの人の語ることに耳を傾け、時に意見を述べ、いまでなければ考えることのできないことを考え、自分よりも過酷な人生を送っている人のために何ができるか考え、そして行動したいと思う。
 自分にはまるで責任がないと被害者面をして、あるいはまるで第三者のように、声高に批判を述べるだけの人を、いったん、遠ざけて見てみる。
 日本は民主主義国家だ。
 日本国政府は日本国民すべてが、選び、雇い入れた、僕(しもべ)だ。
 使用人がしでかしたことは雇い主の責任だ。
 日本で、選挙権を持っている人は、誰ひとり、その責任から逃れることはできない。
 いま、政府をどれだけ批判しようと、誰ひとり、免責にはならないのだ。
 この国のオーナーは国民である。
 すべての問題は我々自身の中にある。
 だから、これからもずっと、考え続ける。僕なりのやり方で行動しつづける。

大相撲八百長事件

 国の方では大相撲を国技とする規定はない。
 国技館で開催することであたかも国技であるかのようにうまくミスディレクションに成功しているのだけど、そのロジックでいくとプロレス各団体も両国国技館で興行を行っているからみんな国技なんじゃないか。
 と、ツイッターで書いたら「ロボコンもやってる」と教えてもらった。ロボコンなら胸を張って国技にしたいよね。
 僕は相撲を見るのが好きだ。スピードと迫力があって面白いからね。
 八百長があろうとなかろうと、結果として面白い。
 大相撲は興行だから、僕はそれでかまわないと思う。
 土俵は社会的公正さという正義を実現する場所ではなく、見ている人を楽しませる場所だ。
 過去の事件を振り返ってみると、大相撲が八百長を続けてきたことはほとんど明らかなことだ。
 八百長なのにこんなに面白いのは、力士が鍛練を積んで、強さとスピードを身につけているからだ。
 それはダンサーや役者がフィクションを演じるために鍛練を重ねているのと同じことだ。
 八百長をやっているのを承知で僕は相撲が好きだ。
 でも、インチキで薄っぺらな伝統とか品格だとかを口にする相撲協会は大嫌いだ。
 彼らが日本の伝統や品格を語ると日本が汚れるような気がする。
 日本の伝統は相撲協会が標榜しているものよりも何百倍も素晴らしい。

世の中、みんなが思うほど悪くない

 実際は減っているのに「少年非行は増えている」と回答する人が7割いるという。
 こういう基本的事実関係を正しく伝えていないマスメディアは責任を感じて欲しいな。
 世の中はみんなが思うほど悪くない。
 犯罪は減っている。
 ずるいことをする人は少数だ。
 みんな真面目に胸を張って生きている。
 テレビや新聞はそれを伝えない。
「犬が人間を噛んでもニュースにならない、人間が犬を噛んだらニュースになる」と言われていた。
 でも、犬が人間を噛むニュースがまったく流れないと、人々は犬が人間を噛むことを忘れてしまうのだ。
 ほとんどの人は正直で善良なのに、世の中悪い奴ばかりで、正直者は馬鹿を見る、と少なからぬ人が思いこんでいないか。
 それはメディアのせいだ。
 だから僕は、善良な人が真っ当に生きて成功していく物語を書く。

伊達直人ブーム

 伊達直人(タイガーマスク)を名乗るプレゼントに端を発して、矢吹丈(あしたのジョー)とか、桃太郎とか、いろいろな名前で匿名のプレゼントをする人が続出している。
 だれでも参加できる参加型の寄付行為だ。
 美談の主人公になる、という目的のために人のためになることをする人がいるのは大歓迎。
 しない善よりする偽善。
 派手好きや目立ちたがりの善人だっているだろうし。
 だいたい善人は地味で控えめだなどという法則性はないわけで。
 そう、プレゼントを贈る側も、レッツエンジョイ!
(追記)
 所得再配分は国家の制度によってなされるべきとの意見があった。
 それはそのとおりだけど、まず寄付行為というのは基本的に「贈る人の心の幸福」のためになされるわけで、そこに納税では得られない幸福がある。
 みな、ささやかな幸福を楽しんでいるのだ。

黄金町新作落語のワークショップ

 午後6時半、黄金町にちなんだ新作落語を作ろうというプロジェクトのワークショップ。
 金原亭馬吉さんと、アーチストの室津文枝さん、初音町黄金町日ノ出町の地元の人たちと。
 終戦から現在に至るまでの「町の戦後史」を率直に語ってもらった。
 さあて、基本的に重い話題なので、これを「落語」に落とし込むにはかなりの腕力が要求される。
 物語の作り手としては大きなチャレンジであり、だからこそ面白そうである。(でも、めちゃめちゃむずかしい)
 それはそれとして、阿川大樹に対して心を開いて町の負の歴史までもハナしてくれて、僕がそこまで町の人に受け入れてもらっているのだと感じられたのが、ちょっとうれしかった。