日: 2007年7月17日

被災地に生きる人たちの気高さとテレビ

 16日午前、中越沖地震が起きた。
 夜になって、被災地に水と乾パンが支給されたときのことだ。
 テレビが「たったこれだけ」と怒りの声を必死で引っ張り出そうとインタビューしているのに、避難所にいる被災者の人たちは「これだけでもありがたいです」という人ばかりだった。
 地震が起きてまだ数時間。道路も寸断されているし、状況把握だって簡単じゃない。
 どれだけたいへんな災害なのか、被害にあった人たちがいちばんわかっている。
 それなのに、なんとか「こんなに遅くなってたったこれだけ」と「行政への怒り」をムリヤリ引き出そうとするテレビに、僕は怒りを感じましたよ。
 新橋駅前で酔っぱらいサラリーマンに政府への不満を言わせるのと同じことをやっているよこいつら、と。
 ともすれば新橋では、夕方4時にはすでに焼き鳥屋が満員になる。
 そんな町で、背広を着て酔っぱらっている人間は、どう転んでも社会の底辺なんかじゃじゃない。
 背広を着て夕方に酒が飲める人はすでに十分恵まれている。
 なのに、そういう人の「怒りの声」を引っ張り出して、政府への不満を表明させ、最後に「いつもしわ寄せはわたしたち庶民にくるんですからねえ」なんて言葉で結ぶのは、年収数億円のキャスターだ。
 実際以上に人々の不満を煽り、政府はケシカランと被害者面をする意地汚さ。
 政府を厳しく監視することは必要だけれど、幸福を感じることを拒絶し、いつも不平不満を垂れていたら、人間は幸福になれない。
 そもそも政治というのは、国民の幸福のためにあるのだ。幸福は心の持ち方に依存する。
 社会に向かって愚痴をいうより、焼き鳥でビールが飲める幸福を語ろうじゃないか。
 ことさらに不平不満を煽るテレビの薄汚さを、呆然とするような厳しい現実の中で、しっかりと自分の力で生き延びようとしている被災地の人の気高さがぶっとばしていた。
 薄汚さと気高さの、こんな対比が、ああ人間ってすばらしいと感じさせてくれる。
 あえて新潟と、あえて日本人と、いいますまい。
 裸で自分の生を活きている人は気高いです。そういう気持ちを忘れたくないと思う。

短編第4稿

 夕方、編集者からメール。
 基本的にOKのようだけど、やりとりのなかでもう少し補筆したほうがよさそうだ。
 ということで、第4稿に着手。
 かなり微妙なチューンナップ。
 翌18日、午前5時、あらためて脱稿。