ちょっといわせて

オスプレイ

 訓練というのは「本番でうまくやるためにやる」わけなので、訓練中には事故が起きるのはふつうというか想定内のことで、問題は、それでも十分安全であるかどうかだと思う。
 今回のオスプレイのように、洋上で訓練して失敗して洋上に落ちるのは、参加している乗員はともかく、一般人に危険はなさそうだ。
 浅田真央だって、練習で転びまくるから本番で三回転ジャンプができるわけで、練習で転ぶのは問題ないし当たり前だよね。
 沖縄に基地を押しつけている現状は問題だと思うけど、オスプレイの空中訓練の事故が住民の安全を脅かしているという事は無いと思う。
 反対運動をするために、客観的でない主張をすると、まともな人の支持が得られなくなるので、やめたほうがいい。

ACジャパン

ACジャパンは「やめよう、自粛」というCMを流せばいいのに。

暴走する正義

 カップヌードルのCM、一部の視聴者のクレームで放送をやめたという。
 これだけ緻密な作りのCMを作る側が批判を想定していないはずはないので、実は批判なんかないのに「少数のヒステリックな批判で取りやめにする」ことを批判するために、「批判があったためにやめるふりをする」ということをしているんじゃないかと思うくらい。
 見てみると、とにかくすごく素敵なCMだ。
 一般人の世直しというかなにか批判できるきっかけを見つけては糾弾する風潮がひどい。

望む人は誰でも大学へ行ける社会がいいけれど

(僕は奨学金は給付型であるべきだとの立場ですが、それはそれとして)
 大学を出て奨学金を返せない人は、そもそも大学でちゃんと勉強したのか、と言われると、確かにそこの検証がなされていないような気がする。
 勉強しないのに大学へ行くのは本人にとっても社会にとっても時間と費用の無駄だから、もし勉強しなかったから仕事に就けなくて奨学金が返せない、という事情なら、そもそも大学へ行かない方がその人にとってよかったのに、間違って行ってしまったことになる。
(就職時期に病気で就活ができなかったなどの少数の個別事情は別にして)
木曜なので、テニスをして、後、原稿書き。

戦後70年の平和とこれから

 日本は戦後70年、平和国家として歩んできた、というのは事実なのだけど、70年これで来たから、この先もそのままで日本人が安全でいることができる、と単純に考えるのは論理的には根拠がないし、ただの前例主義の考え方のように僕には思えます。
 昼まで晴れていたから、午後も雨が降らないと思う人はいないと思うけれど、平和の話になると、そういう言い方をする人がなんだかたくさんいる。
 そのあたり、みなさんはどう考えているのかなあ。
 軍備をした方がいいとか、集団自衛権を進めようという人は、いままでのままでは日本人が安全に暮らせるとは限らないと、思っているんじゃないかな。安倍さんが戦争をしたがっているという人もいるけど、国際経済の仕組みからいって、戦争をして安倍さんや日本の相当数の人(自民党が政権を取れるほどの人数)が得をするとは、僕には思えないから、それは違うよなあと感じています。
 「70年平和だったから」と「安倍さんは戦争をしたがっている」というのをセットでいう人がけっこういるけど、そういうわけでどっちもピンと来ない。
 これからどうしたらいいのか、を考えるときに、いまのやりかたで70年(日本だけは)平和だったから、というのは、一旦、外して、きちんと現状を分析して考えたいな、と僕は思います。そうして考えた結果、結局、いままで通りにやろう、という結論になるかもしれないけど。

解散総選挙

 参政権の行使は選挙にかかるという700億円というお金には代えられない価値があると思う。
 人権にうるさい人が「選挙に使う金がもったいない」というのを聞くと、その人の人権感覚はその程度なのかと思ってしまう。
 参政権というのは、民主主義で一番大事な権利なのだから、節約する場所はそこじゃない。
ひとりあたりランチ一回分で一回投票できるなら、一食抜いてもいいと僕は思う。
ましてや、さんざん自民党政権を批判している人が、政権を倒すチャンスが与えられるのに「解散けしからん」というのを聞くと、「なんだ批判したいだけで本当に政治を変えたいわけじゃないんだ」と思ってしまう。
いくら国会の周りでデモをしても、選挙をしなくちゃ、政権は倒せません。

マー君の大リーグ行きについて

 マー君が大リーグで活躍する姿は見たいけど、20億円というのは不当に安いと思うので、そういう大事なビジネスの問題を無視して、楽天がマー君を出さなかったときに「金の亡者」みたいな論調で球団バッシングが起きたりするのは違うと思う。そこが心配。
 球団を独立した企業として成立させることは大事なことで、もっと価値のあるものを安い値段で手放すのは企業の経営判断として明らかに適切でない。
 少なくとも楽天は、球団経営のために真っ当な努力をしてきたと僕は思っている。
 お金は大事。多くのお金が球団に入れば、より魅力ある球団を作ることができる。
「大リーグのマー君を観たい」という僕個人の希望は別にして、楽天が20億では手放せない、と判断しても、僕は楽天を支持する。

桜宮高校のこと

 桜宮高校の体育科の入試中止について、「受験生が困る」「進路が狭められる」「橋下市長の横暴だ」という意見を聞くことが多い。
 確かに桜宮高校への入学を志望していた生徒にとっては一大事だ。
 けれど、入試をするには「入るに足る学校である」ことが最低条件だ。
「入らない方がいい学校」のなら、志望者を受け入れてはいけない。
「受験生がかわいそう」論はその点が抜け落ちているように思う。
 部活顧問の暴力と、部活で冷遇されることで、アスリートとしての進路に大きな影響があること、それを苦にして自殺をした主将がいた。
 顔が腫れ上がるほど30-40発殴るという暴力が「強くなるために必要な体罰」であるはずはない。
 であるのに、この高校では黙認されてきた。
 校長も教師も保護者も、全員、そうした事実を知りながら黙認してきた。
 バスケ部が強く、顧問が18年のあいだ対外試合での実績があるということにより、犯罪が黙認されてきたのだ。
 一人の暴力教師がいた、ということではなく、暴力を誰も止めない学校だった。
 部活が強くなるなら、暴力教師が生徒を殴ってもよい、と皆が考えていた。
 あるいは、そうした実績がある故に、おかしいと思ってもそれを正せない人たちの集まりだった。
 教育とは「何が正しいか」を教える場だ。
 同時に、「間違っているときはそれを正す」ことを学ぶ場だ。
 対立するものの中から、適切な優先度を判断する能力を学ぶ場だ。
 それは、スポーツで活躍することよりも遥かに重要な、人生の原則だと僕は思う。
 しかし、この学校では、その大原則が教えられることなく、おかしなことが行われているのを知りながら、ずっとそれを集団で許してきた。
 一人の暴力教師の犯罪ではなく、その犯罪を黙認することをよしとする学校だった。
 入試を実施し、新入生が入ってくるまでに、この学校があるべき姿に変わることができるとは思えない。
「先生は悪くない」「とにかく入学したい生徒の希望を叶えるべきだ」
 そういう声がいまだに公然と聞かれる場所は、教育の場所としてふさわしくない。
 本人が「希望している」からといて、教育の場としてふさわしくない学校に新たな生徒を受け入れるべきだろうか。
 受験生の意志を尊重するためには、受験生が正確な情報から冷静に判断できることが前提となる。
 しかし、正確な情報はまだない。学校の内情を十分知ることもできない。
 有名校のバスケット部に入ることに目が眩んだ中学生とその親に、この状況下で冷静な判断などはできない。
 冷静な判断ができない状態の中学生の「本人の意志」は、学校が危険で教育にふさわしい場所にもどることができるかどうかわからない状況で、それだけ尊重すべきなのだろうか。
 そうした「本人の希望」を理由に適切が教育が行われる確証のない場所に中学からの受験生を受け入れることは、とても無責任なことだと思う。
 入試中止は、不祥事を起こした学校への「罰則」などではなく、十分な教育ができない学校へ新たな生徒を受け入れない「防波堤」だ。

庶民の責任

「庶民を苦しめる」という言い方が僕は好きじゃない。
 そこには「庶民は一方的な被害者だ」という意識しかなく、すべての国民がこの国を運営している主権者だという視点がないからだ。
「僕のせいじゃないもんね」という人たちこそが「こんな国」をつくっている。
 民主主義社会で政府が庶民を苦しめているとしたら、それはそういう政府を庶民が選んだからだ。
 なんだ、自分のせいじゃないか。
(少数の弱者は選挙で不利な場合があるけど「庶民」って多数派のことだよね)

ふと思う

子供の頃、そんなに電車は沢山走ってなかった。
時々停電した。
夜9時には寝ろと言われた。
早く大人になりたいとは思ったけど、その他に不満はなかった。
世界のたいていの場所で、電車はたまにしか来ない。
停電もする。
みな、それぞれの場所で、それぞれ、そこそこ幸福だと思う。
停電しないって、もしかしたら、少しおかしかないか、とふと思う。