ちょっといわせて

うな丼

立憲民主党。
うな丼を国会で追及して有権者の票が集まると思う政治センスが決定的に駄目だと思うんだ。野党ったら、なんでこんなに劣化しちゃったんだろう。

森美術館で Chim↑Pom展

 たくさんのことを考えたので長文です。

 一時間半くらいかけていろいろ考えながらゆっくり見た。
 アート界隈の外で生きていたので黄金町に来てしばらく経つまでこの人たちのことはまったく知らなかった。
 やがて名前だけ知ることになり、歌舞伎町ブックセンターで手塚マキさんと対談した夜、ゴールデン街に手塚さんの奥さんのエリイさんが合流して少し話した時にも Chim↑Pomの作品はほとんど知らなかった。
 その後、ブックセンターのビルを取り壊す前にビル全体を作品にしていて、面白さと疎外感の両方を同時に感じたのが作品と対峙した事実上の初体験だった。

 広島で物議を醸した「ピカ」のことを知ったのもそのころだ。
 今回、「ピカ」の経緯について詳細に誠実に説明がされていた。
 被曝当事者の大きな負の思い出や体験と、問題を作り出すことで人々を考えさせる現代アートの関係がよくわかった。Chim↑Pomは真面目だ。
 原爆の体験は無いけど、僕は津波や原発事故直後の宮城福島に行って時間を過ごして、かなりのショックを受けていた。当事者的な感覚を持つまで自分で体験しようとして東北の地に立ったから、アーティストが原発事故を扱った作品を見るとたいてい愉快な気持ちにはなれない。

「意識されないことに意識を向けさせる」という表現者の行為は当事者とそうでない人とでは意味が大きく異なる。

 前にも書いたけど、9.11 では、僕はすごく精神的ダメージを受けていたから、毎年「忘れてはいけない」みたいに思い出させられるのはとてもつらくて嫌なのでテレビは見ない。
「忘れさせない」「思い出させる」「考えさせる」という行為は基本的な表現する側のとても傲慢な行為だと思っている。忘れようが何を考えようが大きなお世話であって、誰であろうと他人に「考えさせ」られたりするのはまっぴら御免だ。
 他人に「考えさせ」られなくたって、津波も原発事故も原爆も戦争も貧困も自由と権力についても、サッポロ一番の値段と小麦の価格と食糧自給率と戦争と国際資本と労働搾取とか……すべて自分で考え続けて生きている。そして、考えれば考えるほど、考えることはつらい。でも、考えなくてはいられないから考えている。
 その意味では「考えさせる」アートは僕にとって相容れない性質を持っている。
 人はそれぞれ、考えたいこと考えたくないことそれぞれに抱いて生きている。広島の人が空に描かれた「ピカ」の文字に怒るのはよくわかる。だって、そんなことアーティストがわざわざ何かをしなくたってしょっちゅう考えているに決まっている。大きなお世話なのだ。
 では、ふだん考えていない、当事者ではない人々には、さまざまな大きな問題について「考えさせる」べきなのか。
 報道の人は「災害、戦争などを忘れないことでそれを繰り返さない」ことが重要だと考えているらしく、多くの人もそう思っているようだ。

 僕は人間をそんなに信じていない。
 そんなことをしてもどうせ忘れるし、忘れていなくても、人間はどうせ戦争をするし、事故を起こすし、災害で逃げ損なってたくさん死ぬと思っている。歴史がそう教えてくれている。
 アーティストは報道とちがって通常「考える」先までは踏み込まない。
 考えることは良いことだから、考えさせるのもたぶんよいことだ。しかし考えたくない人は常にいる。必ず考えなくてはいけないわけではない。人間はだれでも考えず、あるいは愚かなまま生きる権利がある。
 別に、目覚めなくても、考えなくても、権力のいうままになっても、また戦争をしても、崩れそうな崖に建物を建てても、そういうものだからそれでいい。僕はそう思う。
 自分は自分で考える。
 それぞれ少しでも良くなるように考える。でも、みんなが同じように考えなくてはいけないとは思わない。何も考えずに生きたっていい。むしろそれを他人からとやかく言われることがあってはいけない。
「搾取に気づく」必要もないし、結果的に事故や戦争を繰り返したっていい。みんなが同じようにひとつのことを「こうあってはいけない」と考える世界より価値観も関心も違う人が混じっていることが人間の社会の有り様だと思う。
 その代わり、考えた結果も考えなかった結果も、すべて自分で受け入れるのだ。

 Chim↑Pom展に入ってまもなく解体した建物の廃材を使った作品群が並んでいた。
 僕はそれを面白いと思うと同時に、なんだか心が痛かった。その原因が分からず、随分長い時間そのあたりをうろうろした。
 その理由は、帰宅してニュースを見てわかった。戦争で破壊されたウクライナの風景と同じだった。意識していなかったけど僕は既にたくさん体験していて傷ついていた。なので、無数の廃材の山を見て「ピカ」を見た広島の人と共通した感覚を抱いたのかも知れないと思った。

 Chim↑Pom展には、表現のインパクトと表現への真摯な姿勢があった。同時に表現のもつ心への暴力性があることをはっきり知った。優れた表現の暴力の程度はアカデミー賞の平手打ちを遥かに超えている。
 表現は、それが暴力である限り、いつも許されるわけではないだろうとも思う。ただ、許す許さないを決めるのが特定の誰かではない、ということだけだ。

 良い展示なので、ぜひみなさん見に行ってください。
 僕は、東京中をカラスを引き寄せながら走り回っている馬鹿馬鹿しいビデオが一番好きでした。

アメリカの銃規制

アメリカでは大きなスーパーでは銃がふつうに売られていた。
友人の家にもライフルと拳銃があった。
持たせてもらったが「人には向けるな。それが絶対のルールだ」といわれた。
なぜ持っているかと聞いたら、「政府が国民を権力で抑えつけようとしたときに戦うためだ」という答だった。それが合衆国憲法の「銃を持つ権利」の精神なんだね。政府の軍隊だけが武器を持っているのでは民主主義を保てないとアメリカ人は考えている。政府は暴走するかも知れないし、他国の政府の傀儡になるかも知れない。いいなりにはならない。そういうことみたいだった。
ずっしり重い精密なモデルガンをもっているけど、手にもつとオモチャなのにこわい。厳重にしまってある。
(小説家としてそういう気持ちを体験するために買ったのだけど)

温暖化か原発再稼働か

 子供もいないし、僕個人としては地球温暖化が深刻になる頃には地球とオサラバしているので、温暖化よりもしかしたらすぐに起きるかもしれない原発事故やテロや他国からの攻撃の方がずっと怖い。
 性悪説でシステムを運用できない日本人のつくる組織がきちんとルールを守って、同僚のミスをきちんと隠さずに報告して対策できるとも思えないし。
 なので、世界はともかく、日本人は原発はやめておいた方がいいと思う。
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 とはいえ、もし地球温暖化を本当に抑えようとすれば、(事故などが起きないというふうに運を天に任せてギャンブルで)原発を再稼働する選択肢はあり得ると思うので、僕より長生きする若い人たちに選択を任せたいと思う。
 早々に死んでしまう年寄りが後先考えずに地球温暖化のリスクを無視して、原発に反対するのは無責任だとも思う。
 どっちにもリスクはあるので、どちらのリスクを選ぶかということだ。バラ色の道はない。
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 世界で原発回帰の選択肢を人々が考えようとした矢先にロシアの原発攻撃が起きて、これはもしかしたら人類にとってとても重大な転機になってしまったかもしれない。
 恐竜が滅びたように地球のサイクルで人類が滅びることもあるだろうと達観してしまえば「今を楽しく生きる」ことを第一優先にするのもありだと思うけれど。
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 いずれにしても、世界観、自然観、人生観が問われている。

外交で戦争を回避できるか

 どんな戦争の前にも交渉は行われている。
 戦争をしないで要求が通ればもちろん戦争にならない。妥協できれば戦争にならない。多数はそのケースだと思う。戦争は交渉の手段のひとつであり、戦争自体が目的であるわけではないから、条件が満たされれば戦争は起きない。
 その意味で「話し合いで戦争は止められる」は正しい。
 実際、ほとんどは話し合いで解決されているからこそ、摩擦や紛争の種が無数にある割にはそれほど戦争が起きていないのはそういうことだ。

 さて、それでも戦争は起きている。
 戦争というのはこれらが成立しないそもそもレアケースだから、そのレアケースである戦争は「話し合いで止めらる」という、そもそも一般論から外れたところで起きている。

 だから一般論をかざして、「戦争は話し合いで止められる」といくらいってもそれ自体間違っていないが、社会には必ず一般論が通じないレアケースが存在するわけだ。
「戦争は話し合いでは止められない」というステートメントはそうしたケースについての言葉であり、そっちも正しい。
 簡単な話で、両方あるのが当たり前ということ。

 さて、戦争はレアケースであり、そんなレアケースに備えるためには、きちんと一般論から離れる必要がある。
 たとえば、両国のリーダーが有能で分別があれば止められる戦争も、それが成り立たなければ止められない。無能なリーダーなんてそこいらじゅうにいる。ほとんどの国のほとんどのリーダーは国民から無能だと批判されている。
 自国のリーダーを無能だと批判している人は、そのリーダーが戦争を回避する能力があると思っているのかいないのか。

 散々リーダーを批判しているのに「戦争は外交で回避できる」と主張するの矛盾に満ちている。
 さて、疑問はたくさんある。
 我らがリーダーは外交で戦争を回避できるほど有能か?
 次のリーダーが有能である保証はあるか?

 だめでしょう。
 いままでだってダメだったじゃないか。
 だから「話し合いで解決できる」という一般論からきちんと離れなくてはならないと思う。
 話し合いはするに決まってる。事前に話し合いのない戦争なんてあるのか? 
 それでも決別したときに戦争が起きる。外交というAプランでうまくいかないときのBプランだって必要だと僕は思う。

 キューバ危機の時、ソ連がプーチンでアメリカがトランプだったら絶対戦争になっているけど、ケネディとフルシチョフだったから「危機」ですんだのではないか。

災害

 このあいだの地震で、大震災の時のことなど思い出した人も多いと思います。

 僕が思い出したのは、非常時に平常運転を目指すと不安やストレスになるので、非常時だからいつもと同じにならないのはしょうがない、というのを出発点にしたいということ。

 タクシーを2時間待つなら2時間歩けばどこまで行けるかを考える。
 交通機関を使わずに2時間歩くなんて普段ならやらないことをやるチャンスだから。(よく考えたらハイキングに行けば3時間くらい歩くのは普通なのだし)
電車が動かなければ移動できないわけじゃない。
 前にも書きましたが、僕は、新宿ゴールデン街で飲んで終電ないから横浜まで歩いて帰って来たということ何度かやってみているので、電車が止まることをそんなに困ったことだともはや感じない。
 パンがなければケーキを食べればいいし(笑)電車がなければ歩けばいい。

 非常時という基準で思い出すのは、スペインをバス旅行したときのこと。
 とある田舎の交差点のど真ん中でバスを止め、バスの運転手が対向車線から来たトラックの運転手と話し始めた。どうやら偶然知り合いを見つけたということらしい。
 スペイン人にとっては、交差点であろうと知り合いを見つけたら、それはもう非常事態に相当するらしくて、平然と客の乗ったバスを止めて車の運転席の窓を開けてしばらくふたりで話をしている。スペイン語分からないけど、たいした話ではないというのはなんとなくわかる。(笑)
 客の方も、後ろに着いた車も、「知り合いに会ったのならバスを止めて話し込むのも仕方がない」と了解しているらしく、車内から苦情もでないし、後ろの車がクラクションを鳴らすわけでもない。じっとまっているんですね。
 運転手が仕事中に知り合いに会ってしまったら、それはもう平常業務を続けることを放棄するほどの非常事態らしいのでした。まあ、田舎の町でのことでバルセロナではそうでないかもしれないけど。

 日本でも、震度5レベルの地震が来れば、スペイン人が交差点で知り合いに会ったくらいの非常事態だから、ふつうに電車が動いたり、タクシー乗り場にタクシーがどんどん来たりしない。そこでふだん通りに電車が動かないことで困ったり、一大事だと思う必要はなくて、家に近づこうとせずともせめて10キロくらいは歩くことにすると、別の路線とか、バス路線とか、朝までやってる飲み屋とか、友達の家とか、随分と選択肢が広がって、心安らかになる気がします。

日本人の動かす原発は危険

「警備員が社員に忖度」
僕が原発をやめた方がいいと思うのは、こういうことですよ。

日本の組織は、厳密にルールを守ること、性悪説で運用すること、などが不得意というか、ほとんどできない。絶望的にできない。
技術的に安全な原発は作れると仮定しても、運用する人間が危険を作り出してしまう。
「社員がいつテロリストになるかわからない」という前提を置くことができない。「身内はみんないい人」とは限らないし、娘を誘拐され人質に取られて心ならずもテロリストに加担する人が出ることだってある。
廃棄物の処理の計画もなく、液体ナトリウムを安全に抜く仕組みも作らずにもんじゅを動かしてしまったのも、みんなそういうこと。

森喜朗さん問題

午後の早い時間、例によって妻と散歩。
木曜だが「建国記念の日」で祝日なので人出が多い。両親の結婚記念日だったか。
暖かい。

普段の年なら、政治家の誰かが靖国神社に行ったとか、建国記念の日のイベントがあったとかいうニュースが流れるところだが、数日前からニュースは森喜朗会長が女性差別発言をした問題でもちきりだ。
「切り取りで批判している」といういつもの声もあるので、40分にわたるスピーチ全文の書き起こしを読んでみた。
全文読んでも明らかにアウト。
ラグビー協会の理事の誰かの話が長かったのは事実かもしれないが、その特定のケースから「女性は……」と一般化してしまっていることが差別。黒人は、朝鮮人は、女性は、中卒は、とか、属性の一部で人間を一括りにみてはいけないということ。
たとえそこに何らかの傾向があるとしても、各個人は個人としてみなくてはいけない。
同じ意味で、森喜朗さんを年齢を理由に「老害」というのは年齢差別。森さんがケシカランのであって、老人が一括りにそうなのではない。

NBCやトヨタが「森は不適切」と言い出してはもうどうしようもなかったね。
そうなることをきちんと予想できないというところに日本の組織の問題が透けて見える。
スポンサーはオリンピックの理念を利用して自分の社会的評価を高めるために巨額のお金を出す。評価が下がるようなことは許容できない。
森さん本人は何が悪かったのか、あいかわらずまったく分かっていないみたいだ。

昨年9月の入院前を最後に動かしていなかったバイク。
そろそろ動かしたくて、バッテリーを外して充電しなくてはならないだろうと工具を持っていったら軽くエンジンがかかってしまったので、そのまま5分エンジンを回して帰って来た。
近ごろのバッテリーは自己放電少ないのだね。

昨日から、バランスボールを使い始めた。体幹の筋肉を付けるためテレビを見る時などに不安定なそれに座っている。
で、今日は、同様に筋肉を付け柔軟性を確保するために Wii Sports をやろうと、ゴムシートで Wii ぼーどの修理。
たぶんいい具合に直すことができた。しばらく使わない物はことごとく電池切れしている。

終戦記念日

 毎年この時期になると「戦争の悲惨さ」を伝えて「二度と戦争をしないと誓う」的なメッセージが添えられるのだけど、どんなに戦争の悲惨さを知っていてもそのことで戦争を止めることはできないだろう。
 戦争が悲惨でないと思っている人はあまりいないと思うけど、世界は戦争で溢れているのだ。

 なぜ戦争をしたのか、なぜそれを止められなかったのか、戦争をしないためにはどうしたらいいのか、始まってしまった戦争を止める為にはどうしたらいいのか、それを考えなければ戦争をなくすことはできないだろう。
 自分が戦争をするつもりがなくても、戦争が始まってしまうことがある。
 不戦を誓ったくらいで戦争はなくならない。戦争には必ず相手があるのだ。
 合理的に考えれば戦争をしない方がいいと双方が思っていたって、戦争が始まってしまうこともある。人間はあるいは国家は、いつも合理的に行動するとは限らない。

 終戦の日はとにかくめでたい。戦争が終わったことは最高にめでたいことだ。
 開戦の日に、もっと戦争のことを考える機会を持った方がいいような気がする。すべての戦争の犠牲者はその日に端を発している。8月15日ではなく。

新型コロナウィルスについて

 大騒ぎしているけど、インフルエンザと比較してとくに重い病気ではないし、おなじ対策で予防できるので、コロナウィルスをそんなに特別視することはないと考えている。
 僕自身、手を洗う回数を増やしたぐらいでとくに生活様式を変えてはいない。マスクもしていない。効果がないし、わざわざ買うと本当に必要な人から奪うことになるから。

(もともと電車に乗らないからクリーンなのだけどね)でも、必要ならどこへでも行く。

 コロナウィルスの感染者の数と同時に発病して退院した数、インフルエンザの感染者の数、死者の数、なども並行して発表したら、みんな安心するんじゃないかな。
 インフルエンザの感染者も死者もコロナより多いよ。
 去年の1月にはインフルエンザで1685人が亡くなっている。

 メディアはブーム(笑)に水を刺すのでいやなんだろうけど。
 みんなメディアの餌食になってる。馬鹿馬鹿しい。

 でもみんなが手を洗うようになって、昨年同期には166万人いたインフルエンザ患者がことしは46万人だそうです。みんな、手を洗おうね。コロナのせいで、コロナを含めても日本人の健康度は昨年より上がっている。
 とてもいいことだ。