数日前、370枚ほどのところまで書き上げた。
そこで、ここのところ、3日ほどかけて、改めて頭からあらすじを抽出。まだ書いていないところを含めて、85枚ほどの「あらすじ」をいったん完成させる。
目的は、
1)つじつまが会わないところを洗い出しておくこと、
2)残りの部分を書くにあたって勢いをつけるために展開をおさらいしておく、
3)本格的な改稿の前に分量バランスやテンポなどを確認しておく、 など。
ここから約100枚ほど書いて第ゼロ稿として、そこから改稿に入るという手順。
これを含めて、もう1タイトル出版が決まっていながら未完成の書き下ろしがあるので、なんとなくどんよりとしたプレッシャーだ。少し前まで、だれにも頼まれもしない原稿を書いていたのだからして、こういうのにまだ心が慣れていないのだ。ありがたいことだけど。
小説家の場合、忙しくても猫の手は借りられないので、自分でやるしかない。
いまの日本で、だれにでも裸を見せることは推奨されていない。適宜、肌を隠すことが求められている。電車の中で化粧をする人に新聞投書欄で非難が寄せられるのも、たぶん「見せてはいけないもの」を露出させているという考え方が背景にあるからだろう。
互いの裸を見ることは「特権的関係」にあるものだけが許される。誰にでも裸を見せるのは「おかしなひと」のやることだ、とみなされている。
化粧をしない素顔は裸と同じようでもあり、違うようでもある。
人の知らない「あなただけに見せる顔」や「自分だけに見せる顔」には「関係」が存在する。だれにでも見せているわけではない、ということが関係を産み出すわけだ。
関係を確認する喜び、とりわけ男女にはそんなのがあるように思う。恋愛というのは関係を確認し続けることのようでもある。
素顔はそのぎりぎりの境目だ。
素顔の奥にも「あなたにしか見せない素顔」ももちろんある。けれど、だれにでも素顔を見せている、という言葉がちょっと面白くない。
化粧をしないで素顔ですごす女性を恋人にもつと、ヌードダンサーを恋人にもったような複雑感情が生まれるように思う。
少なくとも「裸を見る」という特権的行為が一般にも公開されていると、関係を確かめるために「裸以上」が必要になる。
なるほど。そうか。恋愛というのは互いだけが知っている秘密の共有なのだな。
どんなに境目の位置をずらしても、つねに「その先」はあるから、実はどっちでもいいような気もするんだけどね。逆にいえば、人はその先その先と追い求めることに疲れることもあり、たとえば、さっっさと裸になって開き直ったところから安らぎが産まれるということもある。
さあ、これ以上先はないわよ、つきつめないで、いいかげんくつろぎなさい。
裸や素肌に、そんなメッセージがあるのかもしれない。人間っておもしろい。
とまあ、最近、化粧について続けていくつかネット上の書き込みを読んで感じたことを書いてみました。
化粧をする女と化粧をしない女のどちらがいいか、という永遠のテーマ(笑)がある。
基本的に僕は努力と創造をリスペクトする。だから化粧をする人が好きだ。
いうまでもなく二十一世紀、洋服は寒さを凌ぐ手段であるだけでなく、自分を表現する手段だ。同じように化粧は欠点を隠すものではなく、自分を表現する手段だと思う。化粧は新しい創造だと思う。
あらゆる機会に自分を表現したい。そのスタンスがいいのだ。
今日は素顔の自分を表現したい、と思えば、素顔に見える化粧をすることで、ほんとうの素顔よりも素顔らしい素顔ができるはず。
化粧とはアートだから。
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見かけに関して素顔のほうがきれいに見えるとしたら、それは化粧の技術が下手なだけ。
上手な化粧なら、ちゃんと「きれいなスッピン」に見せることもできます。
見かけではなく、肌の健康上の問題や、人間の心の問題はまた別だけど。
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電車の中で化粧をする女を非難する人がいる。たしなみに欠けるということなのだろう。
ちゃんと家で化粧して出てくる人生の方がゆとりがあることはたしかだ。
しかし、人生、のっぴきならない。
睡眠時間三時間なら、五分でも余計に眠る方が化粧をするよりも妥当な時間配分だろう。
では、五分余計に眠った結果、化粧をしないで家を出てきたとしよう。
彼女は、身だしなみとして、化粧をするべきだと思っている。会社に着いたらすぐ仕事だ。だったら、電車の中で化粧をするか、一日中化粧をしないか、どちらかしかない。
自分のあるべき姿にできるだけ近づこうとして、人は最善の努力をするべきだ。家で化粧ができなかったら、電車の中でするのは次善の策である。
どこがいけないっていうんだ。
人の努力を否定して足を引っ張ることはないじゃないか。
自分の倫理観や価値観に合致しない人がいるからといって、その人の生き方をとやかくいうもんじゃない。(ていう意見も僕の価値観でとやかくいっているんだけどさ)