いまの日本で、だれにでも裸を見せることは推奨されていない。適宜、肌を隠すことが求められている。電車の中で化粧をする人に新聞投書欄で非難が寄せられるのも、たぶん「見せてはいけないもの」を露出させているという考え方が背景にあるからだろう。
互いの裸を見ることは「特権的関係」にあるものだけが許される。誰にでも裸を見せるのは「おかしなひと」のやることだ、とみなされている。
化粧をしない素顔は裸と同じようでもあり、違うようでもある。
人の知らない「あなただけに見せる顔」や「自分だけに見せる顔」には「関係」が存在する。だれにでも見せているわけではない、ということが関係を産み出すわけだ。
関係を確認する喜び、とりわけ男女にはそんなのがあるように思う。恋愛というのは関係を確認し続けることのようでもある。
素顔はそのぎりぎりの境目だ。
素顔の奥にも「あなたにしか見せない素顔」ももちろんある。けれど、だれにでも素顔を見せている、という言葉がちょっと面白くない。
化粧をしないで素顔ですごす女性を恋人にもつと、ヌードダンサーを恋人にもったような複雑感情が生まれるように思う。
少なくとも「裸を見る」という特権的行為が一般にも公開されていると、関係を確かめるために「裸以上」が必要になる。
なるほど。そうか。恋愛というのは互いだけが知っている秘密の共有なのだな。
どんなに境目の位置をずらしても、つねに「その先」はあるから、実はどっちでもいいような気もするんだけどね。逆にいえば、人はその先その先と追い求めることに疲れることもあり、たとえば、さっっさと裸になって開き直ったところから安らぎが産まれるということもある。
さあ、これ以上先はないわよ、つきつめないで、いいかげんくつろぎなさい。
裸や素肌に、そんなメッセージがあるのかもしれない。人間っておもしろい。
とまあ、最近、化粧について続けていくつかネット上の書き込みを読んで感じたことを書いてみました。