日: 2006年5月31日

ある小説家の死

 日本対ドイツのサッカーを朝7時まで観ていたからといって、就寝時間はいつもとだいたい同じ。だれど、起床時間が午前9時半なので、二時間半睡眠でした。
 東十条で12時に知り合いの小説家ふたりと待ち合わせ、軽く食事をしながらなんとなく話をし、午後1時からの告別式に出た。
 違う名前でデビューする少し前に知り合い、昨年ペンネームを変えて再デビューした高梨耕一郎さん。享年59歳。
 仲がよかったわけではない。むしろ相性はよくなくて、電話で話をしたりするといつもこちらが苛立ってしまう。
 小説家や歌手や俳優は、日常生活の上で別に万人にとっていい人である必要もなく、互いに(かつてはデビュー前の、そしていまは駆け出しの)小説家であるというリスペクトとある種の競争心の対象であるというだけの存在であってもいっこうにかまわないから、電話やメール以上にわざわざ会って飲んだりはしなかったけれど、新刊が出たと聞けば「がんばっているな」とこちらも少しうれしくなる、という関係だった。
 昨年末、『覇権の標的』を送ったら検査のために入院しているとのことだった。
 それがどうやら彼の命を奪った病であったらしい。
 彼が自分の病を知ってから亡くなるまで、その経過を僕は知らない。
 けれど、同じ小説を書くものとして、彼が死を恐れるよりも、時間の短さを呪ったであろうことは、確信を持ってわかる。
 これで十分だと言えるほど膨大な著作をものにした大家でもないかぎり、自分がもうじき死ぬと知っていちばんやりたいことは、小説を書くことに決まっている。
 小説家の仕事の量と収入はあまり関係ない。同じに働いていくらの収入になるかはお天道様が決める。
 その度合いの落差はおそらく農業よりも変動が激しく、税金の制度のなかでも漁業と文筆家には「変動所得」という特別な税制が適用される。
 つまり、ベストセラーで「ニシン御殿」が建つか、海に飲まれてただの藻屑になるか、書いているときにはわからないのだ。
 それでも身を削って小説を書く人が小説家と呼ばれ、その意味で、小説家というのは職業というより生き方だといったほうがいい。
 だからこそ、僕には、高梨耕一郎が自分に残された時間が少ないと知って、どれだけ小説を書く時間を、体力を気力を渇望したであろうかということがわかる。

シュート練習

 日本代表ではなく、僕です。
 赤レンガ倉庫にある SAMURAI BLUE PARK。
 うちのボランティア団体がフットサルコートの管理をしています。
 僕の担当日ではないのだけど、仕事のあいまの息抜きに、ちょいと様子見。なにしろ、家から自転車で10分。
 で、平日で空いていたので、ボールを借りて、ドリブルとシュートの練習を30分ぐらい。
 ひと汗かいてしまいました。