午前8時、高架の上を通勤電車が盛んに通る。
そのたびにスタジオの床が振動して目が覚める。
という、行ったり来たり、うつらうつらの時間が終わった午前10時前、寝袋から這い出してくる。
食欲が出てきた午前11時、LCAMP で「いつでもモーニング」を執ろうと思ったら臨時休業。
伊勢佐木町4丁目の「やよい軒」の前にさしかかると、「今だけカツ丼390円」の貼り紙。
というわけで、朝昼兼用はカツ丼となる。
昨日に続いて、長編の改稿。
テンションのいるフェーズではなく、淡々とこなすフェーズ。
午後1時前、ツイッターで「バイクのバッテリーが弱っている」とつぶやいたら午後2時過ぎには、ディサルフェーションのためのパルス電流発生装置と充電器が Triumph に跨がった配達員(笑)によって届けられる。
午後3時、地域の連絡会。
3月のイベントのことなど。
スタジオに戻る途中、お弁当屋さんと出会ったので、夜の弁当を注文。
届いてみると、秋刀魚の塩焼き、茄子の煮付け、筍の梅鰹節和え、ご飯はしめじとえのきを茸ご飯。
美味しくて幸せ気分。
午後10時過ぎ、仕事を切り上げて帰宅。
午前0時、二輪駐車場まで行き、月極駐車料金を払いつつ、バッテリーを外して持ちかえる。
帰宅後、充電開始。
オリンピックも日程が進み、世の中が少し落ち着いてきたので、そろそろ、スノーボードの国母選手の問題について、書いておこうと思う。
国母選手について、海外のメディアを調べてみた。
当たり前だけど、Los Angeles Times, New York Times, Le Monde など、海外の主要メディアには Kokubo の K の字もない。
他にも、それほど報じられているわけではない。
このことから、「日本人として恥ずかしい」という批判は的外れであることがわかる。大雑把にいえば、そんなことは日本人以外はだれも知らないのだから。
海外のメディアで一部取り上げられているのは、「国母選手の服装や態度が日本で問題になって、出場辞退にまで波及しそうであった」という内容だ。
つまり、メディアに報じられている海外の反応は、国母の服装については「日本にも変わったヤツがいる」という当たり前の事実を伝え、「そんなことで大騒ぎしている日本」というものを、奇異に感じているように見える。
または、メディアによっては明らかにそうした日本人を揶揄している内容であったりする。
つまり、日本が恥をかいたのは、「国母選手の服装が乱れていた」ことによってではなく、「そんなことで大騒ぎしている」こと、によるものだった。
結局、この問題は、SAJや日本のメディアやJOCの方が国母選手よりもよっぽど恥を晒した、というわけだ。
そもそも他所の国の選手がどんな服装でいるかなど、世界はだれも気にしていない。日本人だって、ジャマイカやリヒテンシュタインの選手の移動中の服装がどんなだったかなんて、興味ないじゃないか。
移動中の服装なんぞで、「世界に恥をさらす」なんてことは、もとからあり得ないのだ。
(国母の服装を映像で流しているのは日本のテレビだけで、それを見るのは日本人だけである)
こういうことが起きると、「常識」を振り回して「非常識なもの」を批判する人が沢山出てくる。
けれど、常識というのは多数派であるかどうかとほぼ同義であって、善悪とか良否とはちがう。多くの人が共有している価値観を常識というけれど、では異なる価値観は排斥されるべきかと言えば、そうではない。
服装問題は、いい悪いではなく、少数のもの、多様性を認めるかどうか、という問題だ。
僕も国母選手の服装はどちらかというと嫌いだけど、僕の嫌いなファッションをする人がいても、それはかまわない。自分が嫌いなものを、国だとか常識だとかそういうものを持ち出して、「あたかも自分の好みや自分のライフスタイルこそが正しく、他のものは正しくない」みたいにいうのは、間違っている。
「品格」を持ち出して批判をする人もいる。
上品な人は「自分」を律することで自らの品格を保つのであって、けっして「他人」のことを「品格がない」などといって貶すことはしない。
公然と人の品格をとやかく言うのは下品な人のやることである。
つまり、国母選手の服装について、とやかく言えば言うほど、言っている人が恥をかくことになる、ということか。