日: 2009年8月8日

とある「禁句」について

 時々、作品を読んでくださった読者の方からメールをいただくことがある。
「『フェイク・ゲーム』、図書館で借りて読みました。とても面白かったので、次は『D列車でいこう』も借りようと思います」
 とまあ、そんなことを書いてくださっていたりする。
 これには思わず苦笑してしまう。
 もちろん、世に出した作品を多くの読者に読んでいただけるのはうれしいことだ。しかし、一方で、小説家は、本を買ってくださる読者の方からの浄財で生計を立てている。
 いくら読んでくださっても、本を買っていただかないと、明日への糧(比喩的表現でなく文字通り「食べ物」のこと)が手に入らないのだ。
 僕がデビューする前、とある翻訳家にお目にかかった。
「すみません、××(その方の訳書のタイトル)、買わせていただいたままで、まだ読んでいないのです」
 と挨拶の時に恐縮していた。
 するとその翻訳家はさらりといったのだ。
「いいんですよ、読むのはいつでも。買ってくだされば、それで生活できますので」
 そのときまで僕は勘違いしていた。当たり前のことが頭から抜け落ちていたことに気づかされた。
 僕の目の前にいる人は、プロフェッショナルなのだと。
 世の中に、何かを書きたい、それを本にして読んでもらいたい、という人は少なからずいる。
 たとえば、定年退職して自分史を出版した人は、自分でお金を出してでも本を作り、自己実現の一環として、それを多くの人に読んで欲しいと思っている。
 小説家デビューを目指している人にも、ひとりでも多くの人に自分の作品を読んでもらいたいと思っている人は多いだろう。そのために自費出版をする人もいる。
 たしかに、プロにとっても、本を出すことは自己実現ではある。
 けれど、それは職業を通じての自己実現であるから、「読んで欲しい」というのは「買って読んで欲しい」ということなのだ。
 
 図書館で読まないでくれ、ということではない。
 図書館という公共システムがあり、それを十二分に利用するのは推奨されるべきことだ。
 たくさんの読者の方が、阿川の本を図書館で読んでくださっているのを知っている。
 横浜市立図書館だけで『覇権の標的』は、おそらく数百人の方に貸し出されている。
 それはありがたいことだと思っている。
 しかし、著者に感想をお寄せいただくときに、図書館でお読みになったとしても、ことさら図書館で読んだことに言及しないでくださると、著者としてはなお心安らかなのである。
 阿川の本を図書館で読んでくださっても結構なのです。いや、どういう方法であろうと、ぜひ読んで頂きたい。が、どうか図書館でお読みになったという事実は「阿川には内緒」にしておいて戴きたい。
 そして、図書館で阿川の本を読んで面白かったと思って戴けたのならば、できれば、次回は書店にて購入してくださるとありがたく存じる次第です。