映画/テレビ/演劇

大阪国際女子マラソン 福士選手

 去る1月27日の大阪国際女子マラソン。
 福士選手がオリンピック出場権を目指してマラソンに出場して独走したけど、途中から走れなくなって、惨憺たる結果ながらゴールしました。
 彼女は1万メートルとハーフマラソンの日本記録保持者で、立派なアスリートだと僕は思っています。
 しかし、マラソンにおいては全然だめでした。
 オリンピックアスリートというのは、結果の世界で勝負する人であって、他人を感動させる女優やエンターテイナーではない。24時間テレビの欽ちゃんとはまったくちがう。
 だから僕は彼女を評価しません。実際、見ていて感動もしませんでした。
(高橋尚子がきらいなのも「みんなに元気をあげるために走る」みたいなことをいうからです。「自分が勝つために走るんです」といってくれたらいいのに)
 準備期間が一ヶ月だったとか、練習でも40Kmを走ったことがなかったとか、とんでもないことが伝わってきます。
 チャンレンジは否定しません。
 しかし北京オリンピックがあるのはずっと前から判っている。
 僕の友人知人にはマラソンを完走した市民ランナーは何人もいますが、異口同音に「ハーフマラソンとフルマラソンは全然違う」といいます。
 マラソンはハーフマラソンの二倍なのではなくて、まったく別の競技であることは、広く知られていることです。
 僕自身、フルマラソン完走のためにトレーニングしたことがあるので、マラソンを走りきることがどれだけ大変であるかそれなりにわかっているつもりです。
 でも、福士さんは40Kmを走ったことがない ???
(そりゃあ市民ランナーには42Kmを初めて走るのがレース当日という人はたくさんいます。なにしろ完走するのに7時間かかったりしますから、ふつう練習時間が確保できません)
 個人として、どのようなアプローチをしようとそれは自由だけど、結果がすべての競技の世界で、素人の僕から見たって準備の仕方がまるっきり間違っていて、やはり結果もその通り。
 競技で生計を立てている人のことを「最後まで走って立派だった」なんていっちゃいかんです。
 マラソンを最後まで走ること自体は立派です。
 そういうレベルの立派な人は僕の知っているだけでもたくさんいる。テレビに映っているから立派なんじゃない。何万人も立派な人はいる。僕はできないからそれができる人をもちろん尊敬しています。
 でも、あの場所はそういう場所じゃなくて、オリンピックアスリートを選ぶ場所だから、その基準で評価しなくちゃ。
 急にマラソン代表になりたくて、時すでにレース一ヶ月前だったとして、残り枠は事実上一人だとして、まだ高橋尚子もこれから走るという状況で、そのような条件の中、代表選手になるためには、ぶっちぎりのタイムで優勝するしか道はない。だから最初から飛ばして神憑り的な結果に賭ける、という戦術しかなくて、それを実行したのは妥当だと思います。
 彼女が選ばれるとしたら、つぶれるリスクを覚悟の上で飛ばしていくしかない。最初から飛ばしたのは妥当な戦術ではある。
 それを一か八かで実行してダメだったということです。誉めるような要素はどこにもない。
 中学校の全員参加のマラソン大会だったら僕も誉めます。
 でも、オリンピックアスリートを選ぶ場所で、福士さんより上位にいる人よりも彼女が立派だとはまったくいえない。
 福士さんがあの瞬間なりにがんばったというのは事実だけれど、むしろ、彼女より先に倒れずにゴールした人の方が、福士さんよりずっとずっとがんばったのだということを忘れてはいけない。
 結果じゃなくガンバル人を誉めるのだというなら、やっぱり福士さんより上位の人を誉めるべきだと思います。あんなところで倒れてしまう福士さんは、むしろ頑張り方が足りなかったからああなったのです。
 テレビ局にとっては大喜びのシーンでした。
 自分の目にどう見えるかではなく、見えないところで何が起きているか。福士さんより前を走った人が、どれだけのことをしていて、福士さんには何が足りなかったのか。
 テレビを見てそれを考えないと真実を見誤ります。
 テレビに映っているものがすべてではない。
 ところで、努力は自分のために必要だからするのであって、努力そのものに価値があるわけではありません。
 子供の教育の過程では努力の必要性を教え成功体験を身につけさせるために努力を誉めるのは必要なことです。大人の世界では結果を伴わない努力は認められない。
 努力を誉められる人にはなりたくない。そういう自戒をこめて。
 当日のトップ10は以下の通りでした。
 阿川大樹は福士さんを讃える代わりに、以下の方々を讃えたいと思います。
  大阪国際女子マラソン成績     時 分  秒
  〈1〉ヤマウチ(英)      2.25.10
  〈2〉森本 友(天満屋)    2.25.34
  〈3〉モンビ(ケニア)     2.26.00
  〈4〉大平美樹(三井住友海上) 2.26.09
  〈5〉扇 まどか(十八銀行)  2.26.55
  〈6〉シモン(ルーマニア)   2.27.17
  〈7〉奥永 美香(九電工)   2.27.52
  〈8〉藤川 亜希(資生堂)   2.28.06
  〈9〉トメスク(ルーマニア)  2.28.15
  〈10〉ドネ(仏)       2.28.24

映画『ミッドナイトイーグル』

 阪神淡路大震災の日。
 朝日新聞には、神戸在住の作家・高嶋哲夫さんの「地震の日」をイメージした小説(?)が32面前面をつかって掲載されている。
 神戸観光特使でもある僕は、地震の被害から復興をめざす長田地区の商店街なども視察したことがある。『D列車でいこう』にも、主人公・由希も学生時代にこの地震を体験したときの描写がある。
 夕方、肺ガンで療養中の伯父の訃報が入る。昨年正月には叔父が亡くなっていて、父親の兄弟はついに伯母一人になってしまった。
 それにしても、僕の親類はガンだらけ。
 死亡原因の第一位だから死因が癌であるのは当たり前なのだろうけど。
 ちょうど高嶋さん原作の映画『ミッドナイトイーグル』をまだ見ていなかったので、近所の映画館のスケジュールを調べたら、おっと、明日18日までとなっているではないか。
 執筆に行き詰まっていることもあって、レイトショーで観る。
 原作を読んだのはかなり前で細かなことはそれほど覚えていないのだけれど、映画の印象は小説よりも自衛隊や政府が好印象に描かれている。映像的に自衛隊の本物の車両や航空機をつかう関係で、テイストがかえられているのかもしれない。
(だからといって、そうした変更が悪いわけではない)
 後半は、これでもかと泣かせるシーンを詰め込んであり、大仕掛けでありながらかなりウエットな映画でもある。
 小説の方が面白いと思うのは、僕が小説の人だからかな。

映画化の話

 『D列車でいこう』を読んで、こんな感じに映画化を考えてくださっている方がいます。
 ありがたいことです。
 http://yuusuke320.blog115.fc2.com/blog-entry-132.html
 現実の『D列車でいこう』映画化の話は、まだ内緒の段階なのでお話しできませんが、いろいろ動きはあります。
 どちらにしても、映画は映画の人の作品なので、原作者は映画作りにあまり関わらないのですが、逆に、半分内輪、ほとんど他人、というポジションから楽しみにしています。

映画『ミッドナイト・イーグル』

 第16回サントリーミステリー大賞の候補は3人。
 大賞の高嶋哲夫さんはもちろん、新井政彦さん(日本ミステリー文学大賞新人賞)、阿川大樹(ダイヤモンド経済小説大賞優秀賞)と、同期3人とも、いまでは作家デビューしています。
 そんな縁で、ときどき3人で呑んだりしています。
 そんな高嶋哲夫さんの話題作を映画化した映画『ミッドナイト・ イーグル』が11月23日から全国で公開されています。
 邦画として初めての日米同時公開。それてすごいです。
 阿川は原作を読んでいますが、スケールが大きくてとっても面白い。まさにハリウッドスケールの物語。
 映画も時間を作って絶対に見に行ってきます。
   映画の公式サイトは、 こちら
   原作の文庫版『ミッドナイトイーグル』は こちら です。
映画についてGyaoのサイトの文章ではこんなかんじ。

【STORY】
 厳冬の北アルプス上空。米軍の戦略爆撃機“ミッドナイトイーグル”が深夜、忽然と姿を消した。搭載された「特殊爆弾」が起爆すれば、日本全土を未曾有の惨劇が襲う。機体回収に向かった自衛隊の特別編成部隊だったが、彼らを待ち受けていたのは想像を絶する吹雪と、敵国工作員の精鋭部隊だった…。
 映画化は絶対に不可能といわれた、高嶋哲夫の同名小説がついに映画化! 雪山の山岳訓練を積み重ね、極寒の北アルプス山岳シーンに果敢に挑戦したのは、大沢たかお、玉木宏、吉田栄作の3人。ヒロインには竹内結子を迎え、2008年のお正月映画第一弾作品にふさわしい壮大なスケールの作品が完成しました。
『ミッドナイト イーグル』
 2007年11月23日 全国拡大ロードショー
 出演:大沢たかお、竹内結子、玉木宏、吉田栄作、袴田吉彦、大森南朋、石黒賢、藤竜也
 監督:成島出/原作:高嶋哲夫「ミッドナイトイーグル」(文藝春秋刊)
 製作:「ミッドナイト イーグル」パートナーズ
 協力:防衛庁、陸上自衛隊、航空自衛隊
 2007年 / 日本

 すでに見てきた人の情報では、予想通り、とても面白かったということでした。
 以前にはエイプリルフールでお騒がせしましたが、阿川の作品の映画化も、現在、某所で秘密裏に画策されています。それ以外にも、内緒のアクティビティもあり、すべて順調なら、2009年(再来年です)には、阿川大樹原作の映画/TVドラマ作品が、続々、公開されるかもしれません。乞うご期待。

ジャニス・イアン

 最近、CMで Will You Dance ? が流れるので、昨晩あたりから Napster で、ジャニス・イアンを聞いています。
 ジョニ・ミッチェルもそうだけど、このあたりみんな健在で、それぞれにちゃんと進化を遂げているんだなあ。
 Will You Dance ? といえば、テレビドラマの不朽の名作「岸辺のアルバム」です。
 なぜか「あなたバナナジュース好きね」というセリフが頭に残っています。
 代理人からメールが来て、原作料の一部が近々に入りそうなので、かろうじて年が越せそうだ。(笑)

映画『Aサインデイズ』 沖縄の風

 昨日はシリコンバレーの風だったけど、どうやら今日は沖縄の風。
 まず、12月に行くANAのチケットをファイナライズ。
 そしたら、Gyaoのメールで映画「Aサインデイズ」がまもなく終了という連絡。あわてて観る。
「Aサインデイズ」は、ベトナム戦争当時の沖縄コザが舞台。 コザは、嘉手納基地の門前町で、僕がいつも行っている場所だ。今となっては一緒に呑んだ友だちが20人くらいはいる。
 この映画は、『喜屋武マリーの青春』というノンフィクションが原作で、コザが他のどこにも似ていない形で独特の輝きをもっていた時代の物語だ。
 中に出てくるライブハウスは、「セブンスヘブンコザ」にそっくりだし、「ニューヨークレストラン」に似ている店も出てくる。裏通りも見たことのあるようなところ。
 日曜日(28日)に開店40周年を迎えたいきつけの「カフェオーシャン」もかつてはAサインバーだった。映画に出てくるライブハウスもカウンターはむしろこっちの店に似ている。
 そんなわけで、今晩はコザのことを考えている夜である。
 次の小説は歌舞伎町を舞台にニキータのような女性(?)を書くつもりなので、プロットをつくりながら、歌舞伎町関係の資料を読んでいる。
 あとは、ドーピング関係の資料調査。もうひとつは、この間取材をしたシャッター通り商店街。
 なにしろ、当分長編書き下ろしが続くので、いろいろと資料読みや取材準備が同時並行。
 コザのホテルも予約しなくては。

『フラガール』とか

 週末キャンペーンでDVDレンタルが100円だったので、2本借りてきた。
 とある事情で、明日、至急見なくてはならないタイトルができたので、いま借りている分を深夜に続けて2本見る。
 ひとつめは「フラガール」
 全篇「泣かせ」の仕掛けたっぷり。よく泣ける映画。
 日本アカデミー賞最優秀作品賞に異存はないけど、泣かせればいいってもんじゃないとも思う。次こうやってくるな、と読めてそのとおり攻めてきて、それでつい泣いてしまう。あんまりなコテコテの作り方でもある。でも、エンターテインメントとしてすごくよくできていたのはたしか。立派です。
 パッチギと同じ李鳳宇プロデュース。監督はぴあシネマフェスティバルから出てきた李相日。この在日コリアンコンビはなかなか強力。
 松雪泰子もようございました。
 もうひとつは「バックダンサーズ」。
 こちらは、ちょっと残念なできあがりでした。
 急にメインボーカルが引退してしまって、取り残され活動の場を失ったバックダンサーのリベンジ、というアイデアはすごく面白いと思うのだけれど、すべてにおいて作り方が雑な印象。
 子供の頃、世田谷に住んでいたので、10月1日は「都民の日」で区立中学が休み。でもって、近所の天祖神社のお祭り。でも、この日はたいてい雨なのだ。境内にあまり人がいない寂しいお祭り。
 本日も、その例に漏れず、雨降りでした。

やっぱり「パッチギ」

 夕方から神宮前へ。
 ダイヤモンド社の9階で桂吉坊さんの落語を聴く。上方落語を生で聴くのは初めて。
 午後9時すぎ、原宿駅近くでパーティ。
 こうみえても人見知りなので、必死で知っている顔を探す。
(バイオリズム的に社交的なエネルギーがあまりなかったし)
 運よく「ゴールデン街友だち」のCさんを発見。パーティ主催者のTさんと同じ店に出入りしていることは知っていたのだが。
 そこそこのタイミングで新宿へ移動してゴールデン街へ。
 いやあ、何ヶ月ぶりだろう。
 なじみの店でなじみのメンバーがいて、なんとも懐かしい。
 そこでも「パッチギ」の話になり、プロデューサーがなんとCさんの知り合いだったり、実は僕がこの店にいっしょに来たRちゃんは井筒監督のヨメはんだったんだよ、えー、みたいな話になる。店のオーナーは京都の人だし。
 まだ朝まで飲んでいる体力はないので、終電で帰宅。
 なんだか「パッチギ」の風が吹いているようなので、深夜2時頃からビデオで「パッチギ」を見る。
 京都を舞台にしたロミオとジュリエットの話。
 他の映画でいちばん似ているのは「グリース」かな。
「結局、何も変わらない、それでも人間はみんな生きていく」というような話。
 理念よりも現実を泳いでいく哀しみと自然さとたくましさの物語、とでもいうのか。
 映画と小説の作り方の上での決定的なちがいをつくづく感じる。
 あんなに説明しないで物語を運べる映画というのが羨ましくもある。もちろん小説でなければできないこともある。
 この映画でなんだかふっきれた気がする。
 明日一日は雑用があるけれど、やっと頭と身体が小説家にもどってきているのを感じる。

24時間テレビ

 24時間テレビ(日本テレビ)は、好きな人と嫌いな人にはっきり別れるようで、僕の知り合いで24時間テレビを見る人はほとんどいない。
 もちろん、僕も見ない、というか、事前情報を聞いてはいたが、いったいいつ行われるのか興味もないので知らなかった。
 で、たまたまチャンネルを替えたら、欽ちゃんがあと1.5Kmくらいで武道館に着くけれど、放送時間内には間に合わなそうだ、というところで、「間に合わない」というところが妙に気に入って、番組的にどう落とし前をつけるのか、そこに興味が湧いてしばらく見てしまった。
 人はたまに感動して泣きたくなる、という一種の「心の生理現象」みたいなのがあるのは理解はできる。まあ、僕だってそういうふうに思うことはあるし。
 だからこそ、どうやったら人を感動させられるかというのはある程度わかりきっていて、人を泣かせる小説とか感動させる小説とか、そういうのを書くのは別にむずかしくない。単純な技術上の問題なのだ。
 泣けるか、感動できるか、じゃなくて、何によって泣くのか、何によって感動するのか、というところが問題なのだ。
(必ずしも泣かなくても感動しなくてもいいけど、たとえばの話ね)
 欽ちゃんが24時間テレビで70kmを「歩ききって」、感動した人もいるらしい。
 まあそうだろう。でもさ、こういう風にしたらかなりの人を感動させられるってことは、みんなやる前から判っていて、見る人もわかっていて、予想したとおりに感動したいから見ていたんだよね。
 そういうニーズがあるから、そこに商品を提供する、ということを非難することもないと、理屈では思うのだけれど、感動ってそんなにまでして、しなくちゃいけないのかね、と見る人の方にいいたい気分になる。
「欽ちゃんを見てわたしもがんばろうって思った」
 て、おいおい、欽ちゃん見なくたって思えよ。(別にそう思わなくてもいいんだけど、とにかく思うきっかけが欽ちゃんかよ)
 欽ちゃんくらいがんばっている人って、僕のまわりを見回したら、いくらでもいるから、きっと、欽ちゃんをみて感動している人の周りにだって、いくらでもいるんじゃないかな。
 66歳なのに、とか、身障者なのに、とか、そういうオマケのスペックつけなくたって、ちょっと自分の周りを見てみればそれで十分なんじゃないのかなあ。がんばっていないように見えて、けっこうがんばっている人は多いような気がする。
 別に欽ちゃんじゃなくて、どんな人生だって、いつかどこかでのっぴきならないことになるものだし、それでも、たいていの人はそこを切り抜けて生き続けていくものだ。
 まあ、一日に煙草を何箱も吸っていても、66才で70kmくらいは歩き通せるということが証明されたってことで、いいってことにするか。
 愛でほんとに地球が救えるのならいいけど、地球を救うのは愛じゃなくて理性だと思う。
 戦争は愛によって引き起こされている。目に見えている人、近くにいる人だけを愛そうとすることこそが、戦争の原因じゃないのか。目の前にいない人のことを考えることのできるために必要なのは、愛じゃなくて理性だ。自分が愛する人を殺した人にも愛する人はいる。

被災地に生きる人たちの気高さとテレビ

 16日午前、中越沖地震が起きた。
 夜になって、被災地に水と乾パンが支給されたときのことだ。
 テレビが「たったこれだけ」と怒りの声を必死で引っ張り出そうとインタビューしているのに、避難所にいる被災者の人たちは「これだけでもありがたいです」という人ばかりだった。
 地震が起きてまだ数時間。道路も寸断されているし、状況把握だって簡単じゃない。
 どれだけたいへんな災害なのか、被害にあった人たちがいちばんわかっている。
 それなのに、なんとか「こんなに遅くなってたったこれだけ」と「行政への怒り」をムリヤリ引き出そうとするテレビに、僕は怒りを感じましたよ。
 新橋駅前で酔っぱらいサラリーマンに政府への不満を言わせるのと同じことをやっているよこいつら、と。
 ともすれば新橋では、夕方4時にはすでに焼き鳥屋が満員になる。
 そんな町で、背広を着て酔っぱらっている人間は、どう転んでも社会の底辺なんかじゃじゃない。
 背広を着て夕方に酒が飲める人はすでに十分恵まれている。
 なのに、そういう人の「怒りの声」を引っ張り出して、政府への不満を表明させ、最後に「いつもしわ寄せはわたしたち庶民にくるんですからねえ」なんて言葉で結ぶのは、年収数億円のキャスターだ。
 実際以上に人々の不満を煽り、政府はケシカランと被害者面をする意地汚さ。
 政府を厳しく監視することは必要だけれど、幸福を感じることを拒絶し、いつも不平不満を垂れていたら、人間は幸福になれない。
 そもそも政治というのは、国民の幸福のためにあるのだ。幸福は心の持ち方に依存する。
 社会に向かって愚痴をいうより、焼き鳥でビールが飲める幸福を語ろうじゃないか。
 ことさらに不平不満を煽るテレビの薄汚さを、呆然とするような厳しい現実の中で、しっかりと自分の力で生き延びようとしている被災地の人の気高さがぶっとばしていた。
 薄汚さと気高さの、こんな対比が、ああ人間ってすばらしいと感じさせてくれる。
 あえて新潟と、あえて日本人と、いいますまい。
 裸で自分の生を活きている人は気高いです。そういう気持ちを忘れたくないと思う。