映画「ヘルタースケルター」(監督:蜷川実花 主演:沢尻エリカ)を観た。
僕はほとんど映画を観ない人だ。
執筆資料としてDVDを見ることはいくらかあるにしても、劇場で映画を観ることはほとんどない。たぶん、年に2,3本くらい。
そんなわけで、この映画「ヘルタースケルター」は、僕が今年劇場で観た最初の作品となった。
素敵な映画だった。
いい意味でサイケデリック、いい意味で純文学的、そして退廃的。
設定を提示したら、その背景や真実みを理屈で説明しない。
そのかわり、映像とキャストの存在感で、観客の中に存在させてしまう。
映画というメディアの強みをとても旨く使っている。
特筆したいことはふたつ。
まず、キャスティングが素晴らしい。
主人公「りりこ」とライバルの後輩モデル「吉川こずえ」の対比は、ふたりが登場する最初のワンシーンで一気に提示される。
桃井かおりを桃井かおりでありながら今までと違う使い方をしている。
寺島しのぶをあまり美しくないマネージャー役で使っている。
意外性がありながら、それらもはまっている。
役者から可能性を引き出した監督の力量を感じる。
そして、この監督は人の表情を捕まえるのがうまい。
人物を手がける写真家である監督の「目」が遺憾なく発揮されている。
冒頭から、沢尻エリカの魅力にまっしぐらに引き込まれるし、どの人物も最初に登場したときに、説明なしのワンカットで存在感を与えられている。
一枚の絵で人の心を捕まえる技をほんとうによく知っていて、それはそれは「ずるいよ」といいたくなるほどうまい。
あけすけなセックスに関する台詞は、男性の視点ではなく、むしろ女性の会話的(女子会の下ネタ的)。
セックスをするシーンはぎこちなく記号的に見える。
だけど、それは僕が男性で、男性目線のセックスシーンを見慣れているからそう思うのかもしれない。
悪い意味で「文学的な」大仰で思わせぶりな台詞がちりばめられているので、それにしらけることもあるのだけれど、それは確信犯で監督の計算の内なのではないかとさえ思う。
シーンとして出色なのは、りりこがマネージャーの恋人を彼女の目の前で誘うシーン。
3人のそれぞれの心の動揺と痛みが出ていて、観ているこちらが辛いと感じながら、同時に「こんな女がこうして迫ってきたら自分だったらどうするだろう」と、観ているこちらの煩悩と妄想があぶり出される。
このシーンだけのために、この映画が存在してもいいと思った。
常識的には、この映画で描かれている主人公は不幸だし、歪んだ世界の物語なのだけれど、この映画を観ていると、それでもなお「りりこ」がこの世に存在するのなら、世界なんて歪んでいたっていいじゃないか、とも思えてくる。
(いまや死語となっているであろう)デカダンスの誘惑を提示されて、観るものの価値観は揺すぶられる。それが快感だ。
僕は小説家だけど、よくできた映画を観ると映画というメディアのもつ特性をうらやましく思うことがたまにある。
この映画はそんな映画だった。
今朝、四時からの日本テレビ「Oha!4 NEWS LIVE」の中で黄金町が紹介された。
その中で僕が仕事場のスタジオでインタビュー受けているところも放送されたのだ。
そんな時間に誰も見ている人なんていないだろうと思っていたら、起き抜けにメールが2通。
馬車道と野毛の飲み屋のママでした。
夜の仕事をしている人が寝る前に見てくれたらしい。
僕はそのメールを読んでから、録画で見た。(笑)
オートバイでスタジオに。
ランチに「黄金ラーメン」でワンタン麺(今週のサービスで500円)を食べた帰り、やはり同じ放送に出ていた「マイノリティーズコーヒー」に立ち寄って、ひさびさに美味しいコーヒー(480円)をたっぷり飲んで(ここは味がいいだけじゃなくて量が多いのがうれしい)ちょっと歓談。
同番組は、来週の金曜も黄金町特集です。
(僕はもう出ないと思うけど)
来る20日には、日本テレビ「メレンゲの気持ち」にも黄金町が登場。
僕の所も撮影して行きましたが、放送の中で登場するかどうかは不明。
新宿バルト9で劇場公開中の「すべては海になる」(山田あかね監督)を見た。
エキストラで出演している阿川大樹は、試写につづいて二度目だけれど、なんど見てもいい映画だと思う。
改めて、本への思いとか、小説を書く人の思いとか、そんなことを考える。
小説を書くようになって、本を読む時間が少なくなっている自分にちょっと危機感を持ったり。
元演劇人だったこともあるし、小説家なので、一方で、習慣的に作る側の視点が入る。2回見て初めて気づく多数のこと。
小道具に込められた小さなこだわりとか。
あ、主人公千野夏樹の部屋の壁の絵は原作の表紙の絵だ! とか。
三崎口の駅は朝早く到着の設定だけど、影が短いから撮影は真っ昼間だ、とか。
劇中の時間変化より、影の長さの変化が大きくて、撮影にこれこれの時間がかかったらしい、とか。
冬の服装をしているけど、それにしては影が短かい、とか。
書店のシーンは夜中の撮影だったけど、どう見ても昼間に見えて照明さんすごい、とか。
バスは八王子だ。書店は横浜で、タリーズコーヒーも横浜ランドマークタワーの3Fだとか。
もしかしたら大高家の中と外は別の場所だろうか、とか。
カット割りと場面転換がうまいなあ、とか。
ドアの音が、次のカットを先取りしているぞ、とか。
けっして、あら探しとか、裏を暴くとか、そういうのではなく、そうやって観るときに、作っている人たちの思いや技を感じるのがけっこう好き。
夕方、テアトル京橋試写室へ。
山田あかね原作・脚本・監督「すべては海になる」。
この映画、冒頭シーンでいきなり阿川大樹が登場する。手には「フェイク・ゲーム」を持っている。劇場映画、初出演です。(笑)
撮影は真夏の夜中、冷房の止まった暑い書店だったけど、冬の服装をして普通に冬に撮れていた。当たり前だけど。
まあ、ここは、監督のお遊びの一部。ヒッチコック映画で自分が登場するみたいな。
それはともかく、この映画、いい映画でした。
大作ではないけど、いい映画。
もしかしたら見る人を選ぶかもしれないけれど、きちんと作られた上質な時間をくれる作品。
本当は重い題材なのに、映画自体は十分に明るく作られているのも、手腕を感じる。(手腕を感じるなんて、偉そうな言い方で恐縮してしまうけど、だけど、強調しておきたいから)
いかにも立派そうに重く作るのなら、ずっと易しいかもしれない。その方が「大作」に見えたり、あるカテゴリーの観客は「感動」したような気がするかもしれないけど、そうはしていない。
佐藤江梨子をこういう存在感で使うなんて、しろうとの僕には想像もできなかった。(これもレベルの低い褒め方で書くのも恥ずかしいけど)
とにかく、いつでも女優を「美しく」とか「可愛いく」とか、そういう薄っぺらな使い方ではない。
書店員の彼女は、たいていの時間、なんだか疲れていて、生きているのはたいへんだなあ、というふうに見えている。
そして、要所要所で、そんじょそこらの人が到底もっていない神々しさを帯びる。世界が彼女の存在を失ってはいけないと思う瞬間が短い時間だけど、しっかり、狙われて作られているように思う。
それが、スクリーンいっぱいに映ればシワまで見えてしまう、映画の中の女優の使い方なのだ、と気づかされる。
問題は、たぶん、「この映画の良さを短い文字で表現する」のがとても困難な映画だということかもしれない。
見ないとわからないいい映画。
もしかしたら公式サイトやパンフレットでは伝えきれない。
それは興行的には困ったことかもしれないけれど、つまり、映画の1時間59分をもってして、初めて表現できるものを持っている映画だってことだ。
エキストラとして、台詞もない役をこなしただけだったけれど、おしまいのタイトルロールに、阿川大樹の名前がクレジットされていた。
「撮影の時に栄養ドリンクを差し入れした」という以上に、僕がこの映画に貢献しているものはない。むしろ、僕が映画の現場を勉強させてもらった上にロケ弁をご馳走になった、といった感じ。
けれど、いい映画に名前が刻まれていると思うと、無条件にうれしい。
京橋の試写室を出てから、いい気分で銀座を歩いて新橋まで。
途中、山田監督に電話して「よかった」と伝えようと何度も思ったけど、意外にシャイな僕は、それができずに新橋の立ち飲み屋でちょっと空腹を満たして、帰宅。
長編、追い込みモード中で、テンションが抜けたらどうしようという不安があったけれど、作品を作る人の執念というか熱意というかが感じられて、むしろエネルギーをもらえた。
そのお陰で、帰ってから年末進行の連載エッセイも、さらりと1時間、 pomera で書けてしまった。
1月23日から全国で公開です。
映画「すべては海になる」公式サイトは こちら です。
夢の遊眠社の創立メンバーで現在東京芸術劇場(芸術監督が野田秀樹)の副館長・高萩宏さんが「僕と演劇と夢の遊眠社」(日本経済新聞出版社)を上梓したので、出版記念パーティに招かれて行ってきました。
250人ほどの大パーティ。
演劇関係者が中心で小田島雄志さん、扇田昭彦さんなんかも発起人。
野田秀樹も発起人だけど来なかった。(笑)
結構、平均年齢の高いパーティ(笑)
途中、遊眠社初期のメンバーということで、田山涼成、上杉祥三、松浦佐知子、川俣しのぶの俳優陣と並んでステージ立ち、ちょっとスピーチしました。
帰りに電車でさっそく読み始めたけど、けっこう面白い。
演劇を、内容に妥協せずにきちんとペイするビジネスにしたという意味で、夢の遊眠社とプロデューサーだった高萩宏の功績は、やっぱり大きいものだと再確認した次第です。
よい芝居と商業性は対立すると、当時の多くの演劇人は決めつけていたところがあった。
演劇というのは金にならない、とみんなが思いこんでいた中で、はっきりとその点を変革したのは、(友達が書いた本であるということを別にしても)日本の文化史の中でやはり、記録されておくべきことで、その意味で、よい本だと思います。
遊眠社にいたことはやっぱり僕の人生に大きな影響を与えています。
芝居の世界でも、文学座とか、青年座とか、そういう既存のエスタブリッシュメントはあったのだけれど、そのまったく外に、新しく道を創ることができるのだ、ということを実際に体験したことで、僕の人生の選択は自然に広くなった。
目的に到達するために、道を選ぶだけでなく、場合によっては道から造ればいいのだ、と。
遊眠社は、演劇に於けるアントレプレナーシップそのものだった。
あらためて、よい友人に恵まれていい時間を過ごしたのだと、思いました。
何人かの友人たちに久しぶりにあったけど、考え事をしたくて、まっすぐに帰ってきました。
6月最後の日。今年も半分終わってしまった。
人生は短い。
午後1時、ずっと沖縄に住んでいた従姉妹がスタジオにやってくる。
本土で会うのは、何年ぶりだろう。(笑)
沖縄のこととか、家族のこととか。
午後4時過ぎ、シネマ・ジャック&ベティで、映画「アライブー生還者ー」を見る。
「アンデスの聖餐」を扱ったドキュメンタリー。
おそらく僕にとって長い期間のテーマになるだろう。
家を出るとき雨。帰りは曇り。
スタジオに傘が増える。
「A地点とB地点の間を1日に1往復する場合、トータルで傘が何本あれば、晴れた日に傘を持って帰らずに、あるいは、帰りの雨のために降っていないのに持って出ることなしに、必要なときに傘をさすことができるだろう」という数学の問題を考える。
行き帰りの時間帯の降水確率、その標準偏差、などをデータとして揃え、目標とする安全度を定めれば、求められるはず。
経験的に、「濡れてもいいや」と夕刻は雨の予報なのに傘を持っては出ない、というポリシーで何十年も生きていても、それほど困ったことはない。
朝降っていなければ、夜もあまり降らない、と朝の天気と夜の天気はそこそこ相関があるから、朝の天気だけで傘をもつかどうかを決めても、結構、夜は安全だということなのだろう。途中で降っても遅くまで仕事をしていれば、帰る頃には雨が上がっている、なんてこともある。
帰りは濡れても家について着替えればいいから、どうしても傘が必要ってわけでもない。
もっといえば、「雨が上がるまで帰らない」というポリシーを適用すると、傘などなくても、帰りに雨に降られて濡れる可能性は簡単にゼロにすることができる。
創意工夫があれば(笑)問題は簡単に解決するものである。
途中、仕事を中抜けしてシネマ・ジャック&ベティでベイルートを舞台にした映画「キャラメル」を見る。
「やっぱり猫が好き」と「八月の鯨」を足して二で割ったような映画。
結構、好き。
玉泉亭でタンメン(600円)。おいしい。
夜10時すぎ、徒歩で帰宅。
妻も食事がまだで、手分けして夕食を作って食べる。
近所のシネコンで、本日最終日の「スラムドッグ$ミリオネア」を観る。
(まもなく着手する書き下ろしの資料でもある)
インド映画の形式を借りたイギリス/アメリカ映画。
きわめてシリアスな状況をただシリアスなものにせずにきちんと娯楽作品に仕上げたところが素晴らしい。
これを目いっぱい重たいトーンで描いたところで、伝わるものは、結局、この映画と同じだ。だったらストレートな、ラブストーリーにしてしまえばいいじゃないか、という発想が意表を突かれる。
日本人なら絶対シリアスな映画にすると思う。
あらすじにしたら陳腐でも、映像はちゃんとそれ以上のものを語るのだ。
何をどれだけしっかりと描こうと、最後は娯楽に仕立てる。
映画と小説が同じようにできるとは限らないが、このスタンスは僕としても小説の方向性として学びたいと思った。
いったん帰宅した後、午後4時にスタジオへ出勤。
頭のなかでころころとマリモのように成長の兆しを見せ始めた書き下ろしのイメージを文字にし始める。