日: 2006年11月11日

脱力の1日

 脱稿して精神はゆるやかになった。
 肉体はリビルドする必要があり、運動をしようと思っていたら、冷たい雨。
 すっかりめげて、久々に浴槽に湯を張ってゆっくり入浴など。
 というわけで、まあ、あまり何もしない日。

タウンミーティング「やらせ」問題

 タウンミーティングというのは、政府がやろうとしていることを国民に伝える、ようするにプロパガンダのための仕組みだと思っていたので、やらせがあることはむしろ当たり前だと思うのだけれど、世間の人はそう思っていなかったということなのかな。(いや、世間ではなく単にメディアが、ということかも)
 ちょっと意外でした。
 当日、都合の悪い意見を封殺したというのなら問題だけど、開催者の意図に沿った質問があるのは、そういう会なのだから当然だと思う。
 共産党の政治集会に行けば共産党の主張を発言がでるのと同じように、タウンミーティングは政府の政治集会みないなもの。
 ここで重要なのは、政府は国民によって選ばれていて、支持された政策を迅速に実行する「義務」があるから、できるだけ啓蒙して賛成者を増やし、スムーズに政策を実行できるような環境を作っていく努力をするのは当然なわけです。(政府は国民全体と対立しているわけではなくて、少なくとも多くの国民の支持によって政策を実行しようとしているのだから、できるだけ政府に賛成の人を増やそうとするのは当たり前のことで、それが民主主義そのものなのだから)
 政府の意見に反対である人は、独自に別の討論会を開くこともまた自由で、それぞれがそれぞれの立場で、自分の意見の支持者を増やそうと活動して競い合うことこそ民主主義なのだと思う。
 政策の決定から施行の過程で、政府側が公平な場を用意することこそ当たり前だという発想はあまりにナイーブというか、「お上」にそういう場まで用意して頂く、という発想で、むしろ民主主義的ではないように思う。
 自分以外の人が理想的な仕組みを作ってくれてそれに乗るのではなく、互いに相克して、結果としてバランスの取れた社会を、「(時に敵対を通じて)共に創り上げる」ことこそ民主主義というものだ。
 そもそも政府は国民の支持を得て政府たり得ているという点を忘れて、なんでも政府が国民の敵であるかのように捉えるのは、階級闘争的なイデオロギーのバイアスがかかった考え方だと思う。
 そもそも民主主義とは異なる主張の戦いの結果であり、だれか他人によって与えられるものではない。
 でも、世界史を勉強していない人は、そういう風に思えないのかもしれないな。
 だめじゃん。やっぱり世界史は勉強してください。

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