日: 2022年2月26日

外交で戦争を回避できるか

 どんな戦争の前にも交渉は行われている。
 戦争をしないで要求が通ればもちろん戦争にならない。妥協できれば戦争にならない。多数はそのケースだと思う。戦争は交渉の手段のひとつであり、戦争自体が目的であるわけではないから、条件が満たされれば戦争は起きない。
 その意味で「話し合いで戦争は止められる」は正しい。
 実際、ほとんどは話し合いで解決されているからこそ、摩擦や紛争の種が無数にある割にはそれほど戦争が起きていないのはそういうことだ。

 さて、それでも戦争は起きている。
 戦争というのはこれらが成立しないそもそもレアケースだから、そのレアケースである戦争は「話し合いで止めらる」という、そもそも一般論から外れたところで起きている。

 だから一般論をかざして、「戦争は話し合いで止められる」といくらいってもそれ自体間違っていないが、社会には必ず一般論が通じないレアケースが存在するわけだ。
「戦争は話し合いでは止められない」というステートメントはそうしたケースについての言葉であり、そっちも正しい。
 簡単な話で、両方あるのが当たり前ということ。

 さて、戦争はレアケースであり、そんなレアケースに備えるためには、きちんと一般論から離れる必要がある。
 たとえば、両国のリーダーが有能で分別があれば止められる戦争も、それが成り立たなければ止められない。無能なリーダーなんてそこいらじゅうにいる。ほとんどの国のほとんどのリーダーは国民から無能だと批判されている。
 自国のリーダーを無能だと批判している人は、そのリーダーが戦争を回避する能力があると思っているのかいないのか。

 散々リーダーを批判しているのに「戦争は外交で回避できる」と主張するの矛盾に満ちている。
 さて、疑問はたくさんある。
 我らがリーダーは外交で戦争を回避できるほど有能か?
 次のリーダーが有能である保証はあるか?

 だめでしょう。
 いままでだってダメだったじゃないか。
 だから「話し合いで解決できる」という一般論からきちんと離れなくてはならないと思う。
 話し合いはするに決まってる。事前に話し合いのない戦争なんてあるのか? 
 それでも決別したときに戦争が起きる。外交というAプランでうまくいかないときのBプランだって必要だと僕は思う。

 キューバ危機の時、ソ連がプーチンでアメリカがトランプだったら絶対戦争になっているけど、ケネディとフルシチョフだったから「危機」ですんだのではないか。