政治

アメリカの銃規制

アメリカでは大きなスーパーでは銃がふつうに売られていた。
友人の家にもライフルと拳銃があった。
持たせてもらったが「人には向けるな。それが絶対のルールだ」といわれた。
なぜ持っているかと聞いたら、「政府が国民を権力で抑えつけようとしたときに戦うためだ」という答だった。それが合衆国憲法の「銃を持つ権利」の精神なんだね。政府の軍隊だけが武器を持っているのでは民主主義を保てないとアメリカ人は考えている。政府は暴走するかも知れないし、他国の政府の傀儡になるかも知れない。いいなりにはならない。そういうことみたいだった。
ずっしり重い精密なモデルガンをもっているけど、手にもつとオモチャなのにこわい。厳重にしまってある。
(小説家としてそういう気持ちを体験するために買ったのだけど)

外交で戦争を回避できるか

 どんな戦争の前にも交渉は行われている。
 戦争をしないで要求が通ればもちろん戦争にならない。妥協できれば戦争にならない。多数はそのケースだと思う。戦争は交渉の手段のひとつであり、戦争自体が目的であるわけではないから、条件が満たされれば戦争は起きない。
 その意味で「話し合いで戦争は止められる」は正しい。
 実際、ほとんどは話し合いで解決されているからこそ、摩擦や紛争の種が無数にある割にはそれほど戦争が起きていないのはそういうことだ。

 さて、それでも戦争は起きている。
 戦争というのはこれらが成立しないそもそもレアケースだから、そのレアケースである戦争は「話し合いで止めらる」という、そもそも一般論から外れたところで起きている。

 だから一般論をかざして、「戦争は話し合いで止められる」といくらいってもそれ自体間違っていないが、社会には必ず一般論が通じないレアケースが存在するわけだ。
「戦争は話し合いでは止められない」というステートメントはそうしたケースについての言葉であり、そっちも正しい。
 簡単な話で、両方あるのが当たり前ということ。

 さて、戦争はレアケースであり、そんなレアケースに備えるためには、きちんと一般論から離れる必要がある。
 たとえば、両国のリーダーが有能で分別があれば止められる戦争も、それが成り立たなければ止められない。無能なリーダーなんてそこいらじゅうにいる。ほとんどの国のほとんどのリーダーは国民から無能だと批判されている。
 自国のリーダーを無能だと批判している人は、そのリーダーが戦争を回避する能力があると思っているのかいないのか。

 散々リーダーを批判しているのに「戦争は外交で回避できる」と主張するの矛盾に満ちている。
 さて、疑問はたくさんある。
 我らがリーダーは外交で戦争を回避できるほど有能か?
 次のリーダーが有能である保証はあるか?

 だめでしょう。
 いままでだってダメだったじゃないか。
 だから「話し合いで解決できる」という一般論からきちんと離れなくてはならないと思う。
 話し合いはするに決まってる。事前に話し合いのない戦争なんてあるのか? 
 それでも決別したときに戦争が起きる。外交というAプランでうまくいかないときのBプランだって必要だと僕は思う。

 キューバ危機の時、ソ連がプーチンでアメリカがトランプだったら絶対戦争になっているけど、ケネディとフルシチョフだったから「危機」ですんだのではないか。

選挙結果の満足度

こんどの選挙結果。
高齢者は満足していない人が多いのに、29歳以下3分の2は結果にが満足しているらしい。
となると、「若者よ、選挙に行け。選挙に行かないから年寄り優先の政策になるんだ」という言説はまったく説得力がなくなっている。「選挙に行かなくても自分たちが望む結果がでいる」状態のようだ。選挙に行かないのは、積極的な白紙委任なんだね。
昔と違って、若い人ほど自民党支持率が高い。
政治に不満があるのは年寄りで、若者は満足しているらしい。
若者が政治に満足しているなら、老い先短い年寄りの言うことなど聞かないで、若者の望む社会を尊重する方がいいのかもしれないね。自分の国は自分で作るわけだから、若い人が自分が思うような国を作ればいい。
ちょっと、ため息が出るけど、エビデンスベースで判断するとそういうことになる。
(もちろん、ぼくは僕の考えで投票するけど)

解散総選挙

 参政権の行使は選挙にかかるという700億円というお金には代えられない価値があると思う。
 人権にうるさい人が「選挙に使う金がもったいない」というのを聞くと、その人の人権感覚はその程度なのかと思ってしまう。
 参政権というのは、民主主義で一番大事な権利なのだから、節約する場所はそこじゃない。
ひとりあたりランチ一回分で一回投票できるなら、一食抜いてもいいと僕は思う。
ましてや、さんざん自民党政権を批判している人が、政権を倒すチャンスが与えられるのに「解散けしからん」というのを聞くと、「なんだ批判したいだけで本当に政治を変えたいわけじゃないんだ」と思ってしまう。
いくら国会の周りでデモをしても、選挙をしなくちゃ、政権は倒せません。

反原発の敗北から

 原発の事故で多くの人の健康と心と財産が脅かされている。
 いままで、僕は原子力発電所を安全だと信じることが一度もできなかった。
 科学を学んだものとして、安全であればありがたいというわずかな期待を込めながら、いろいろ調べてきた。
 原子力を推進している機関に正式な質問状を出して回答をもらったりしても、やはり危険であるという結論は変わらなかった。
 何十年と危険だと思っていたのに、ついに大きな被害を出してしまった。
 結果的に、僕にとっていまの事態は「反原発運動の敗北」である。
 なぜ原子力発電所の建設と運用を止めることができなかったのか。
 地震が起きた日から、ずっと考えてきた。
 原発に反対する人の意見を毎日大量に見たり聞いたり読んだりしてきた。
 世の中でこれほど多くの人が危険について指摘し、運動をしてきたというのに、なぜ、原子力発電所がこれほどたくさんできてしまったのか、それを改めて考え続けた。
 当然ながら、原子力発電所は「エネルギーが大量に必要である」という前提から始まっている。
 その前提を疑うことなく、だから原子力発電所は必要なのだと言われ続け、その前提を崩すことができなかった。
 炭酸ガス排出がよくないというもう一つの前提がそれを補強した。
 そして、他の発電手段が技術的に、あるいは、経済的に不十分であるという前提が加えられた。
 原子力発電所は安全である、という絶対的な前提を基礎にして、推進されてきた。
改めて前提を並べてみよう。
1)電気エネルギーが大量に必要である
2)火力発電は炭酸ガスを排出することで環境を破壊する
  (石油石炭天然ガス資源の国際依存というリスクも存在する)
3)太陽光、風力、潮汐、地熱などによる発電は技術的に未熟で経済的にも成立しない
4)原子力発電は安全でクリーンである
 今回の事故によって、4)が成立しないことは明らかになった。
 仮に今回の事故を教訓に改善が為されたとしても、それで万全であると言い切ることは不可能だと僕は考えている。
 どんな事態を想定したところで、人の創造力は経験以上には膨らまず、原発事故の被害の及ぶ規模や年月からいって、経験したときにはもう後の祭りだ。
 想定できる人為的ミスについても同様だ。
 しかし、時間が経てば異なる見解も表明されるようになり、ふたたび原子力発電所の建設を推進しようという動きはでるだろう。
 絶対安全などということはあり得ないと考えるし、そもそも危険因子は自然災害や偶発的な事故だけでなく、テロや戦争など意図的な攻撃の標的となることを考えれば、安全であるはずがない。
 ミサイルや自爆航空機の衝突も十分あり得る。
 原子力発電所作業員や制御システムを運用する人間が故意に事故を起こそうとする可能性も否定できない。
 少数の悪意をすべて予測し、すべてに対策を取ることはそもそも不可能だ。
 そのような危惧は、新しいものではなく、ずっと表明され続けてきた。
 であるのに、原子力発電所は作られた。
 その事実を前提に考えると、安全性の議論とは別に、上記の、1-3をきとんと問い直さなくてはならない。
 安全であるという前提以外の、そもそもの原子力発電所建設の前提である1-3について、長期間、すべて問い直しつづけて、いま僕自身は、この前提自体があやまっていると考えている。
 これについては、時間を作って別の機会にできるだけきちんと述べたいと思う。
 それはそれとして、1-4のすべての前提が否定され、日本中にどれだけ原子力発電所建設反対の人が多かったとしても、我が国の社会システムにおいては、発電所を作りたいと思う少数の人が原発立地の少数の人と合意しさえすれば、原子力発電所の建設が可能なのである。
 あらゆる原子力発電所は、そのようなシステムの反映として建設されている。
 原子力発電所の建設に反対し、本当に建設を止めるためには、この点に注目しなければならない。
 いままで、僕を含め、原子力発電に反対する人は、主として建設の主体である電力会社や政府に対して議論を挑んできた。運動家たちの反対運動のターゲットも、電力会社や政府だった。
 しかし、たとえ彼らを論破しても原子力発電所は止まらない。
 実は原発を推進する意志を持つ人たちにとっては、反対運動をそこそこに受け流して、建設地とだけ話をすればよかったのだから。
 建設地の人たちが一枚岩で両手を挙げて賛成してきたわけではないことも知っている。原発の事故の責任が建設地の周辺の人々にあると責めるつもりもない。
 福島を始めとする原発立地には、その地域ごとの事情があり、結果として原発建設を受け入れる決断をする事情があった。
 つきつめれば経済の問題だ。
 雇用、税金、補助金、交付金、その他の通常の地元の経済、そうしたものに、原子力発電所を受け入れようとする本当の要因があった。
 原子力発電は一世代で背負うことができないほどに危険であり、やめなければならないと僕は思う。
 今後も引き続き、原発の建設や運用を阻止するためには、立地地域のそうした事情を原子力発電所以外の手段で解決する答を用意しなければならない。
 そうでなければ、日本のさまざまな地域で「背に腹は代えられぬ」と考える人たちがこれからも出るだろう。建設したい側の人たちは、その人たちにアプローチしてなんとか原子力発電所を動かそうとするだろう。
 以前も、現在も、多くの反原発の人がしているように、電力会社や政府に向けてだけ反原発運動をしても、原発は阻止できない。
 原子力発電に反対する人は、僕自身も含め、そのことを肝に銘じなければならないと思う。
 

国難

 水道の水に「乳児が飲むのに不適」という放射性ヨウ素が検出された。
 乳児がいない人が買い占めに走ると、乳児が飲む水がなくなって彼らを被爆させてしまう、という風に考えない人が、ごく一部とはいえけっこうな数いるのだということがあからさまになって、暗い気持ちになる。
 僕はずっと原発に反対してきたし、先の選挙で民主党に投票していないし、そもそも政治的権力がウソやごまかしに満ちているということも知っている。
 だけど、いまは政府の批判はしない。
 若い人はともかく、56歳まで選挙権を持って生きてきて、こういう国になっていることに、僕は責任を感じている。
 僕の望んだ政府であったことが一度もなくても、民主主義の中に生きている僕が、56年かけてこんな国しか作ることができなかったのは、紛れもなく僕自身の責任でもあるのだ。
 僕だけの責任ではないにしても。
 たとえ、政府の発表する放射線量がウソで、その結果、僕が被爆して命を縮めたとしても、僕はそれを自分の為したことの結果として受け入れる。
 (むろん、僕自身の判断がきとんとした根拠をもってできれば、それに従って行動するけれど)
 日本が落ち着きを取り戻したら、この国の政府を批判もするし、どうしてこういう国になってしまったのか、多くの人と話をしながら考えていきたいと思う。
 けれど、いま、政府の批判はしない。
(たぶん、愚痴は言うと思うけど(笑))
 むしろ、どうしたらいいのか、多くの人の語ることに耳を傾け、時に意見を述べ、いまでなければ考えることのできないことを考え、自分よりも過酷な人生を送っている人のために何ができるか考え、そして行動したいと思う。
 自分にはまるで責任がないと被害者面をして、あるいはまるで第三者のように、声高に批判を述べるだけの人を、いったん、遠ざけて見てみる。
 日本は民主主義国家だ。
 日本国政府は日本国民すべてが、選び、雇い入れた、僕(しもべ)だ。
 使用人がしでかしたことは雇い主の責任だ。
 日本で、選挙権を持っている人は、誰ひとり、その責任から逃れることはできない。
 いま、政府をどれだけ批判しようと、誰ひとり、免責にはならないのだ。
 この国のオーナーは国民である。
 すべての問題は我々自身の中にある。
 だから、これからもずっと、考え続ける。僕なりのやり方で行動しつづける。

エノラゲイの乗組員

論評せず、まず、見る聞く。
そしてずっとずっと考える。
少なくとも彼を非難するのは正しくない。
戦争では、勝者も被害者である。
生存する最後のエノラゲイ乗組員へのインタビュー(英語)

歌舞伎町定点観測

 ライブが終わった午後9時過ぎ、久しぶりにあった古い友人女子2名とゴールデン街近くの焼き鳥「花梨」で飲む。
 午後11時、ゴールデン街”April Fool”へ。
 ゴールデン街も半年ぶりくらいかなあ。
 夜明かしをするのは、「フェイク・ゲーム」の取材のために歌舞伎町のいくつかのポイントで定点観測をしていた頃以来だから、2年以上前になるかな。
 午前2時過ぎ、ぽつりぽつりと雨の降る中、歌舞伎町一番街の李小牧さんの店「湖南菜館」へ。
 あまりおなかが空いていないので、湖南チャーハンとアイスウーロン茶。美味しかった。
 李さんは明日横浜にダライラマの講演を聴きに行くのだという。
 その間、奥さんと子供さんの遊び場所について相談に乗る。
「電車動くまでテレビを見ていけばいいじゃない」
 李さんの言葉を後に、午前3時過ぎ、店を出る。
 少し遠回りをしながら、次の定点観測へ。
 一時期減っていたナイジェリア人の客引きが増えている。
 不景気のせいなのだろうか。(根拠はない)
 24時間やっている Cafe AYA。
 深夜料金380円のコーヒーを頼んで、店の中の様子を観察。
 外にいたナイジェリア人が、一番外側の席に座っていた女性に窓越しにサインを出している。
 腕にタトゥーをしているその女性は、ドア口まで出ていく。
 やがて、黒人と店内に戻ってくる。
 二人は初対面のもよう。
 英語で話をしている。
 ユア ソー セクシー、とかなんとか。
 男は携帯の番号を教えている。プリペイドだそうだ。女の子には彼氏がいて、ホストをやっているのだと。
 臆せず、そこそこの英語を話す女の子。
 10分ほど話をしたかと思うと、テーブル越しにキスとして男は出ていく。
 女の子、それほど美人ではないけど、つけまつげが長い。風俗か水商売。肌がきれいで少し上気しているので、おそらく風俗だと思われる。
(風俗産業では顔の造作より、肌のきれいさが求められるのだそうなので)
 午前3時半、入口の外でホスト風の男と手を振って分かれた女性が店に入ってくる。
 始発を待つ女性の一人客は、ほどんどがこの町のどこかで働いている人。
 午前4時少し前、キャバ嬢風女子2名に、ホスト風の男子3名がやってくる。この子たち、すっぴんで会ったら、まったくわからないだろう。
 同時刻、このシーンで最初に登場した女子の携帯にメールが入る。だがホストの彼は現れない。必死で返事を書いている形相が次第に厳しくなっていく
 午前4時10分。彼女は水をもらいに行ったかえりに僕のテーブルにごくわずか身体を当てる。
「すみません」と彼女から自然にやわらかい言葉が出てきた。
 まもなく、彼女の携帯にメールがか届く。
 その後も「ホスト+若い女性」の組み合わせは繰り返し出入り。
 キャバや風俗で稼いでホストに貢ぐ、というパターンはほんとに多い。
 そこから先、今晩の登場人物にどのようなプロファイリングをしたか、というのは、小説のネタにかかわるので、ここには書かない。
 午前6時前、自宅に到着

鳩山総理大臣の所信表明演説

 鳩山総理大臣所信表明演説の最後の一文。
「ぜひとも一緒に、新しい日本をつくっていこうではありませんか。」
 これが民主主義の基本ですね。
 政治家が、こういう当たり前のことを言うことが実に少ない。
 民主党政権について、政策については賛成できかねることがたくさんあるけれど、とりあえず、この一点で、鳩山所信表明を評価しておきたいと思います。
 僕の知る限り、合衆国大統領は、つねに we を主語にして語ります。
 具体的なことは別途法案として編み上げていくべきことですが、政治には、まず第一に理想が必要。
 理想が現実からどんなに遠くても、理想は高くなくてはいけないし、その距離があるからこそ、どういう筋道をつくっていくかが重要になる。理想があってこそ。順序というものを考えることができる。
 日本をつくるのは、政治家でも官僚でもなく、国民であるのに、一緒に作るという政治家が少なく、自分が国を作るときちんと意識している国民も少ない、という日本の民主主義。
 少しでもよくなるといいですね。

オバマ大統領就任演説

 昨夜は、起きて生中継をみていたけれど、同時通訳でよくわからなかったので、英語で聞き直しました。
 
 http://www.asahi.com/international/090121douga.html
大雑把に言って、
「いま自分たちは、困難にあるけれど、自分たちの歴史を思い起こして、先人たちがやって来たことについて、我々は自信を誇りを持って、困難に立ち向かおうじゃないか、そうすればできるよ」
 内容的にはそういう話でした。
 いつもそうなのだけれど、(バカブッシュの演説ですら)大統領の演説を聞くと、感動するのですね。涙が出そうになる。
 それはアメリカという国の成り立ちと、彼らの教育と、スピーチライターという専門職の洗練された文章と、伝道師的伝統の英語の音楽的な言葉のリズムと、そういうすべてのものの重なり合わせだけれど、基本にあるのは当事者意識を皆が持とうとしている、もたそうとしていること。
 自分の国であり、自分の困難であり、自分の未来が自分の手にあるという基本構造。そしてそれが自由ということであり民主主義というものであると、つねに確認し続けていること。
 結果として、アメリカが行うことが世界を幸福にしないことはたくさんある。それはもうたくさん。
 けれど、大統領が替わってリセットがかかる度に、アメリカ国民はアメリカ合衆国国民であることを誇りに思い喜ぶチャンスをもつということだけは事実のようだ。
 一方、日本の政治の問題は、国民に当事者意識がないこと、政治家が当事者意識を持たせようとしないことに尽きるように思う。
 何もかも足りない困窮のなかから、経済が成長すること自体が幸福の増大に結びついていたときは、それで、だれも困らなかった。
 政治がいくらか失敗しても、だれかが私腹を肥やしても、みんなの生活が向上しているときは、多少のスローダウンも、取り分の不公平も問題にはならなかった。
 でも、いまのように困難に直面したとき、そのことはとても大きな障害になる。
 政治家が国民にわずかな負担を求めることすら困難になってしまっている。単純にたった数パーセントの税金すら上げられない。
 政治家と国民のあいだに信頼関係がないから、国民自身が自分の国を造り動かしているのだと思っていないから、自分の国の金庫に自分の財布からいくらか移動させるだけで、それは以前として「自分が主権者である自分の国のもの」であることにかわりはないはずなのに、税金を払うと云うことが、自分の財布から抜き取られ、自分とは関係のない財布に入ってしまうと思うのだ。
 誇りがあれば、自ら傷みを負うことができる。
 信頼されていると思えば、一緒に困難に立ち向かおうと言えるのに、「票を入れて戴く」「税金の負担をお願いする」あるいは「票を入れたらあとはだまって政治家に任せる」という構造だし、自分が主権者なのに被害者だと思ってしまっている国民は、国の困難や自分の困難に自分の責任を感じず、政治の責任を追求しては失望し、ますますしらけて何もしなくなる。
 僕は日本を好きだけれど、アメリカに大統領が生まれる度に、アメリカ人を羨ましいと思う。キューバの人を羨ましいと思うのと同じように。