月別: 2012年8月

新学期が憂鬱だった

 8月最終日。
 
 いつも宿題は7月中に済ませていたから、夏休みが終わる日にそれで焦ったことはない。
 それでも、小学生の頃、明日から学校が始まるのがとにかくいやだった。
 小学校の授業って、教科書読んだら全部書いてあるのに、それを凄く時間かけて先生が話す。
 授業の最初の5分で自分で教科書読んで「あ、そういうことね」と理解して、しょうがないから、あとは窓の外を見ている。
 毎日が退屈との戦いだった。
 毎日毎日、教科書を5分読めばわかることを45分かけて説明する先生の話を上の空で聞きながら、時間が過ぎるのを我慢する日々。
 あまりにもヒマだから、暇つぶしに、手を挙げて質問したり、先生の質問に手を挙げて答える。
「みんな、これについてどう思う?」
 先生は、まず生徒に疑問を投げかけ、それから時間をかけて、授業の中で正解に辿り着こうとしていたらしい。
 でも、その投げかけは、教科書を読めば書いてあることだったり、他の本で読んで僕が知っていることがほとんどだった。
 だから、僕は、先生が最初に投げかける質問でほとんど正解を答えられた。
 誰も手を挙げないときに、僕だけ手を挙げるから、先生はしょうがなくて僕に当てる。
 すると僕が正解を言ってしまう。
「あまりにもすぐに正解が出てしまうと、授業になりません。わかってもあまりすぐに答えないようにしてください」
 父母の面談で母がそう言われて帰ってきたことがあった。
 子供心にとても理不尽な気がした。

映画「ヘルタースケルター」

 映画「ヘルタースケルター」(監督:蜷川実花 主演:沢尻エリカ)を観た。
 僕はほとんど映画を観ない人だ。
 執筆資料としてDVDを見ることはいくらかあるにしても、劇場で映画を観ることはほとんどない。たぶん、年に2,3本くらい。
 そんなわけで、この映画「ヘルタースケルター」は、僕が今年劇場で観た最初の作品となった。
 素敵な映画だった。
 いい意味でサイケデリック、いい意味で純文学的、そして退廃的。
 設定を提示したら、その背景や真実みを理屈で説明しない。
 そのかわり、映像とキャストの存在感で、観客の中に存在させてしまう。
 映画というメディアの強みをとても旨く使っている。
 特筆したいことはふたつ。
 まず、キャスティングが素晴らしい。
 主人公「りりこ」とライバルの後輩モデル「吉川こずえ」の対比は、ふたりが登場する最初のワンシーンで一気に提示される。
 桃井かおりを桃井かおりでありながら今までと違う使い方をしている。
 寺島しのぶをあまり美しくないマネージャー役で使っている。
 意外性がありながら、それらもはまっている。
 役者から可能性を引き出した監督の力量を感じる。
 そして、この監督は人の表情を捕まえるのがうまい。
 人物を手がける写真家である監督の「目」が遺憾なく発揮されている。
 冒頭から、沢尻エリカの魅力にまっしぐらに引き込まれるし、どの人物も最初に登場したときに、説明なしのワンカットで存在感を与えられている。
 一枚の絵で人の心を捕まえる技をほんとうによく知っていて、それはそれは「ずるいよ」といいたくなるほどうまい。
 あけすけなセックスに関する台詞は、男性の視点ではなく、むしろ女性の会話的(女子会の下ネタ的)。
 セックスをするシーンはぎこちなく記号的に見える。
 だけど、それは僕が男性で、男性目線のセックスシーンを見慣れているからそう思うのかもしれない。
 悪い意味で「文学的な」大仰で思わせぶりな台詞がちりばめられているので、それにしらけることもあるのだけれど、それは確信犯で監督の計算の内なのではないかとさえ思う。
 シーンとして出色なのは、りりこがマネージャーの恋人を彼女の目の前で誘うシーン。
 3人のそれぞれの心の動揺と痛みが出ていて、観ているこちらが辛いと感じながら、同時に「こんな女がこうして迫ってきたら自分だったらどうするだろう」と、観ているこちらの煩悩と妄想があぶり出される。
 このシーンだけのために、この映画が存在してもいいと思った。
 常識的には、この映画で描かれている主人公は不幸だし、歪んだ世界の物語なのだけれど、この映画を観ていると、それでもなお「りりこ」がこの世に存在するのなら、世界なんて歪んでいたっていいじゃないか、とも思えてくる。
(いまや死語となっているであろう)デカダンスの誘惑を提示されて、観るものの価値観は揺すぶられる。それが快感だ。
 僕は小説家だけど、よくできた映画を観ると映画というメディアのもつ特性をうらやましく思うことがたまにある。
 この映画はそんな映画だった。

帰国

 午前5時10分、起床。
 まだ暗い。来た頃に比べると日が短くなってきたなあ。
 午前5時50分、ついに住み慣れた家を後にする。
 さようなら Ponte Storto
 さようなら Santa Croce
 ここにいた90日、毎日が、すごく楽しかった。
 それが、ただ起きて考えごとをして、ご飯を食べているだけの日であっても。
 
 ものすごくいろいろなことを考えた。
 日本のことや、世界のことや、人々のことを考えた。
 昔の人の生み出したものに囲まれて暮らしながら、まるで、自分が世界を作った神様であるかのように、世界のことを考えた。
 命のこと、時間のこと、食のこと、働くということ、何かを産み出すということ。
 おかげで、自分のことが考えられなくなって、自分が小説で書いていることが、ひどくどうでもいいことのような気分になって、すっかり筆が進まなくなってしまった。
 待たせてしまっている編集さん、ごめんなさい。
 阿川大樹は、イタリアで哲学してしまいました。
 帰国したら、小説家人格を取り戻します。
 去年の3月11日のあとのように、別の意味で、イタリア生活は別の揺さぶりを僕にもたらした。
 大きなスーツケースを持ち上げてみて、ちょっと重いと思って、お土産のうち、自分用のアチェート・バルサミコ1本とリゾット3袋を取り出して家に残した。
 歯を磨いて、水だけ飲んで、大きくて厚い家の扉を閉めて、帰国の途に就いた。
 ベネチア・マルコポーロ空港で荷物のチェックイン。
 制限23キロに対して、20キロ。
 チャートバルサミコ、出さなくてもよかったか。
 手荷物のスーツケースは制限8キロに対して7.9キロ。
 こちらはぴったり。
 本当はサイズオーバーの手荷物も運よく通過。
(もう100ユーロの追加荷物運送料を免れた)
 いざ、帰国なり。
 飛行機は満席、日本、暑いだろうなあ。
 部屋を借りて一週間で点かなくなったバスルームの天井の電気、結局、4ヶ月たっても直らなかったなあ。
 それもイタリアらしい、いい思い出だ。

イタリア生活最終日

 早起き。
 ついにイタリア生活最後の日だ。
 午前中、COOPに買い物に行く。
 インスタント・リゾット、アチェート・バルサミコ、乾燥ポルチーニ茸、など。
 日常の食材ではなく、お土産。
 午後、空港行きのバスの時刻、そのバスに間に合うバポレットの時刻の確認。
 午前6時4分のバポレットに乗るのがよさそうだが、けっこうギリギリなので、バポの回数券が余っているのを利用して、実地で乗り継ぎの確認。
 家の最寄りの San Stae から16分後に Piazzale Roma でバスに乗らなくてはならないところ、実地では12分で可能だった。
 余裕は4分。
 バポレットの運行はイタリアとは思えないほど正確なので、大丈夫だと思われるが、あまり余裕はない。
 30分遅いバスでも、おそらく大丈夫だろうけど、そちらだと、バスと飛行機の乗り継ぎの余裕がなくなる。
 なにしろ、今回の場合、何があっても8月20日に飛行機に乗れないと「不法滞在」になってしまう。その結果、将来の人生にどう影響するかわからない。
 ただの「乗り遅れ」とは、まったく意味が違う。
 もしかしたら、(可能性として)将来ヨーロッパに移住したいということになるかもしれないから、その時に障害になるような悪い滞在実績を残すわけにはいかない。
(過去に、不法滞在したことのある人間を移民として受け入れる国は普通はないからね)
 さて、あとは、イタリア生活最後の夜を楽しもう。
 日が暮れて涼しくなったところで、リアルトのバーカロでちょいと立ち飲み。
 帰宅してから、最後のイタリアおうちご飯。
 サン・ダニエルの生ハムとメロン、水牛のモッツァレラ・チーズでカプレーゼ。ワインはピノ・グリジオ。
 やっぱりイタリアの食生活といえば、ハムとチーズなんだよね。
 毎日、何かしらのハムとチーズとトマトを食べていたけど、まったく飽きるということがない。
 
 住み慣れた町、住み慣れた家を離れる、ちょっと感傷的な気分。
 最後はいよいよ問題のパッキング。
 季節の違う3ヶ月の生活用品を持ち帰る。
 さらに一ヶ月残る妻の持ち物で、今後使わないものは、今回、僕が持ち帰らないと、一ヶ月後に帰る彼女一人では、残りを持ち帰ることができない。
 というわけで、スーツケース大小2つ。
 気になるのは荷物のチェックイン。
 アリタリア航空の場合、エコノミークラスで預けられる手荷物は1個、重量は23Kgまで。(スイス航空なら2個まで預けられる)
 機内持込手荷物は、25x35x55。重さ8kgまで。(スイス航空だと、25x40x55)
 2個めのスーツケースが、スイス航空ならOKでアリタリアでは駄目なサイズ。
 もともとスイス航空で帰るつもりが、ビザの関係で早く帰ることになり、8月20日に東京へ帰る便で一番安いのがアリタリアだったのだ。
 20日より前はさらに料金が高く、21日ならスイス航空が安いが、それではビザが切れて不法滞在になってしまう。ギリギリの選択。
 そのギリギリの選択が荷物のサイズにまで影響してくるとは。
 さて、4時間くらい眠れるかな。

レオナルド・ダビンチ 最後の晩餐

 朝6時に家を出て、Trenitalia でミラノへ向かう。(二人で38ユーロ)
 列車の中で、家から持ってきたブリオッシュを食べる。
 2時間半の鉄道の旅で到着したミラノの駅は、大きくて美しい、まるで美術館のよう。
 規模でも建築としての美しさも東京駅なんてもんじゃない。
 中二階のカフェで、再びブリオッシュとコーヒーの朝ご飯。
 地下鉄M2。
 午前11時45分、で、予約してあったレオナルド・ダ・ビンチ作「最後の晩餐」を見る。
「最後の晩餐」は、完全予約制で1回25名、15分間。
 修道院の食堂の壁画であるこの絵は、思っていたよりもずっと大きい。
 そして、この大きさがあってこそ、遠近法の奥行きが効果を発揮する。
 その迫力は、印刷物で見るものと、まったくといっていいほど違う。
(印刷物ではテーブルの回りの人物だけに着目して切り取られたものもあるが、実物に描かれている天井部分がないと奥行きのダイナミックさが話にならないくらいちがう。
 完全予約制だけど、15分ゆっくり見ることのできるシステムはとてもいい。
 混雑の中で押し合いへし合いで絵画を鑑賞するのはいやだ。
 芸術鑑賞は夏休みのラジオ体操じゃないのだから、「見た」とスタンプ帳にハンコの押すのが目的じゃない。
 さて、そういうわけで、正午にはミラノのメインイベントは終了。
 あとは、何をしようかな、というところだけど、正直、どうでもいいので、そのあとの時間の使い方は、もっぱら妻に任せる。
 Santa Maria delle grazie 教会から、徒歩で少し行ったところの Castello Sforzesco へ。
 おとぎ話に出て来るような、画に描いたような、ヨーロッパの「お城」である。
 その中が、さまざまな博物館美術館になっている。
 入場料、なんと無料。無料だけど無料の券を持っていないと入ることができないという、意味不明なシステムに沿って発券所でチケットをもらって、見て歩く。
 ものすごくでかいお城で博物館だらけなのに、カフェがなくて、飲み物を買うこともできず、3時間ほど完全に脱水状態になる。あわや流行の熱中症になるところ。
 つくづく、ここでも芸術鑑賞は体力勝負である。
 城を出たところに屋台があって、何はともあれ、コカコーラ。(2.5ユーロ)
 それから、噴水のある広場の反対側で、座って食べることのできる切り売りのピザと水で、ほっとひと息。
 地下鉄、M1で Duomo まで。
 世界4大聖堂といえば、バチカンのサンピエトロ寺院、英国セントポール寺院、スペインはセビリア大聖堂、そして、ミラノの大聖堂。
 本日のミラノ大聖堂で、人生4大聖堂コンプリート!
 ミラノの大聖堂はステンドグラスが素敵。
 ただ、礼拝の椅子からの両側に、たいしたことのない絵画が提げられていて、ステンドグラスへの視界を遮っているのが、とても残念。
 大聖堂からは、ミラノの新京極とでもいうべきアーケードの商店街(高級ブランド店が並ぶ)を通り抜けて、有名なスカラ座へ。
 このスカラ座、正面に立っていながら、別の場所に立派なものがあるに違いない、と思わず周辺を歩き回って探してしまったほど外観はショボイ。
 アーケード街、店の名前は金色で表示するという町にルールらしく、マクドナルドのロゴもゴールド。
 列車は午後8時過ぎなので、早めの夕食。
 ちょっと調べたレストランが意外に遠くて途中で断念し、通りすがりで入った店で。名物ミラノ風カツレツとミラノ風リゾット。ブランド街のレストランだと30ユーロのミラノ風のカツレツが10ユーロという店なので、たいして美味しくないけど、まあ、ミラノへ来てミラノ風を食べたということで。
 他にサラダとビールで、ふたりで39.5ユーロ。
 地下鉄M1で Milano Centrale へもどる。
 Trenitalia で Venezia Santa Lucia へもどり、午後11時前、帰宅。
 距離270キロを、同じ列車で、行きは二人で38ユーロ、帰りは二人で18ユーロ。
 イタリアの鉄道は安い。
 あらゆるものについて、日本は過剰品質で値段が高くなっていると感じる。
 
 試験でも80点なら5時間勉強すればいいところ、95点を取るには10時間、100点なら20時間勉強する必要があったりする。
 完璧を求めず、80点でいいことのすれば、コストはとても安くなる。
 なんでも完璧を目指すのは悪いことではないけど、多くの場合、無駄が多い。
 ダイヤを正確に守ろうとしないだけで、運賃はずっと安くなるのではないか。(分単位で正確に運行される新幹線と、たいてい10分ぐらい遅れるけど料金が半額で大阪までいける鉄道と、どちらが本当にユーザーが臨んでいるものなのか。改めて考え直していく必要があるんじゃないだろうか。
 経済成長が緩やかになった時代に、完璧主義をやめて80点主義、場合によっては60点主義でアプローチするという発想の転換が必要になっているのではないだろうか。
 すべてがいい加減だけど何でも安くてけっこう用が足りてしまうイタリアで生活してみると、日本の完璧主義の馬鹿馬鹿しさみたいなものをすごく感じる。

資料本を電子書籍で

 書いている小説について考えがまとまらないので、Sony Reader で資料本読み。
 電子書籍だと、海外にいても、見つけた本がすぐに読めるのでありがたい。
 手に持っても本より軽いし、目も疲れないので、家のいろいろな場所でいろいろな姿勢で読んだ。なんか極楽。
(ところが現在のところ、楽天koboでは、イタリアからのアクセスでは日本語の本が表示すらされない)
 いくらAmazonで紙の本を買うのが便利だといっても、数分で手に入る上に、いくら買ってもおもくならない電子書籍にはかなわない。
 早く、もっと電子書籍が進んで欲しい。
 一方で、いい売り場をつくるために創意工夫をする書店員のいる書店が、電子書籍でもちゃんとビジネスできる仕組みを作れるといいのだけどなあ。
 同じ決済システムを使って、複数のお店がそれぞれに品揃えや並べ方をすることができて、ユーザーがお気に入りの店を選ぶことができればいいんだよね。
 夜、ベルリンへ出張していた妻が帰宅。
 夕食は Ae Oche で、ピザでなく。

イタリア生活、よいところ悪いところ

イタリア(ベネチア)にほぼ3ヶ月住んでみて、気づいた所をまとめて見た。
【イタリアの生活のよいところ】
 食材がだいたい日本の値段の4分の1、種類も豊富で美味しい。
 ワインが1リットル200円くらい。
 食材などは量り売りなので無駄が出ない。
 包装が簡単なのでゴミがあまり出ない。
 個人商店が多く物を買うのが楽しい。
 広場があって地域のコミュニティがある。
 近所の音や声がよく聞こえる。
 電話やネットも安い。
 文化や芸術も天こ盛り、値段も安い。
 人々がのんびりしている。
 暮らし方の種類がいろいろで、他人に干渉しない。
 完璧なサービスを仕事を期待するあまりに、そうでないことに苛立ったり、他人の出来の悪さをあげつらったり、そういうピリピリした空気がない。
 ちょうどよい加減にいい加減。
【イタリア生活のよくない(?)ところ】
 壊れたものはなかなか治らない。
 色々いい加減。
 いちいち長い行列ができる。
 列が短いからといって時間がかからないかどうかはわからない。
 (自分の番が来たら必要な時間をたっぷりとりたいから、窓口で長く時間を使う人がいても互いに許す)
 近所の音や声がよく聞こえる。
 (迷惑をかけないように息をひそめて暮らすのではなく、お互いに迷惑かけ合い許し合う暮らし)
 商店の営業時間がまちまちで昼休みもあるので、個別に営業時間を知っていないと買い物ができない。
 夜中には何も買えない。(コンビニはない)
 公的機関の情報がしばしば間違っている。
 掲示や公式サイトではなくいちいち人を辿って確かめていかないと正確な情報、必要な情報が手に入らない。
 (「わかんなかったら聞けよ」方式:情報の基本は口伝?)
 (現場にマニュアルもないから、訊いて担当者がわからないとき、担当者は知っている誰かに順番に聞いて回る。だから窓口でやたら時間がかかったりする)
 (はなからものごとを文書で周知徹底しようと思っていないみたい)
 お店も話をしないと欲しい物が出てこない。
 (まさかないだろうと思って訊いてみると、びっくり、奥から出てきたりする)
 でも、すべて最初からそういうものだと思っていれば、特に問題でもないから、悪いところはとりたててないともいえる。
 ようするに、ものごとを最短距離で効率的にやろう、などという野望を持たなければ、何も問題はない。
「完璧」はいろいろ高くつくから、完璧を目指そうと思っていない社会。
「いい加減」といってもずるいのではなくて、「お互いに不十分」なのを許し合っているからフェア。
(こっちはちゃんとしているんだから、そっちもちゃんとしろ、と迫ったりしない)
 その結果として、とても暮らしやすい社会ができている。
ちなみに、
 電気料金は日本の1.5倍くらい。
 一人当たりGDPは日本の7割くらい。
 原発をやめて高い電気料金になって、GDPが7割くらいまで下がった日本の暮らしを考えたとき、十分、幸福に暮らせるんだよ、というロールモデルになっているかもしれない。(もちろんそう簡単には比較できないのだけれど)
 どっちにしろ、いまの日本にいるよりずっと暮らしやすい。
 できれば日本に帰りたくない。

妻はベルリンへ

 午前8時前、妻はベルリンへ仕事に出かけていった。
 久々のシングルなので、どこへも出かけず、なんとなく落ち着いて考えごと。
 昼は、スパゲッティ・ボロネーゼ。
 午後8時15分、ゆっくりと暗くなり始める頃、散歩に出かける。
 明日はイタリアの休日、聖母被昇天祭(Ferragosto)、なので、日本のお盆のようにイタリアも休日モード。あちこちで店も閉まっている。
 ていうことは、明日は市場がやってないということか、と気づくのも後の祭り。
 なんと、COOPも休業の貼り紙がしてあるではないか。
 こいつはちょっと参ったな。
 日の暮れたサンジャコモ広場では、「タンゴの夕べ」という感じのイベントが開催されていて、町の人が踊っていた。
 日本だったら「東京音頭」とか「炭坑節」のところが、こちらはタンゴですたい。
(なぜか鹿児島弁)
 夕食は、コットレッタ(冷凍)とアーティチョークのリゾット(インスタント)、それにアチェート・バルサミコ・サラダ。

月曜日は市場へ出かけ

 朝食前に、リアルトの市場へ。
 途中の Piccolo Bar でペストリーとコーヒー。2ユーロ。
 おっと、魚市場は休みだ。
 青果は6割くらい営業してる。
 桃2種類とトマトを買う。
 こちらは桃もトマトもそれぞれ数え切れないほど種類がある。
 帰り道でパン(2つで65セント)を買い、バールでコーヒー(1ユーロ)。
 一旦帰宅してから、近所の生協でクロダイを買う。(3.69ユーロ)
 市場より鮮度が落ちるがやむを得ない。
 妻が仕事でしばらくベルリンへ行くので、僕が帰国するまでにゆっくり家で夕食を摂る機会はもうほとんどない、というわけで、今夜は自宅で魚料理。
 
 今日もぼんやりと構想を練る時間。
 夕方、携帯電話のチャージに行く妻につきあって外出。
 ところが San Pantaron の Vodafone が休み。
 しかたがないので、San Toma から Vaporetto で Rialto まで行き、別の Vodafone へ。
 セルフでチャージする機械があって、現金からもクレジットカードからもチャージできる。この機械は言語設定を英語にすることができる。
 スーパーでお金を払ってカードを買い、電話をしてアクティベートする方法もあるのだけど、電話の向こうが自動応答のイタリア語なので、ほぼ不可能。
(イタリア人の学生でもよくわからなくて難しいというくらい)
 こちらのプリペイド電話のチャージには、電話機はいらない。電話番号を入力してチャージの手続きをすると「**ユーロ、チャージされたよ」というメールが来て、手続き完了。
 こちらはバスも水上バスも時間制なので、11ユーロで10回分の回数券の一回分は60分有効。その間は、どのようなルートで何度乗っても、追加の費用は発生しない。
 観光客で混雑したリアルト橋を渡りたくないので、用事が済んだ後は再び Vaporetto で一駅乗って、Rialto Mercato まで。
 バーカロに立ち寄ってプロセッコ(2.5ユーロ)とつまみ(1ユーロ)をつまんで帰ってきた。

調子が出ない

 今日ははっきり涼しい。
 今日の散歩は、Casa di Carlo Goldoni へ。
 イタリアを代表する多作の劇作家 Carlo Goldoni の家。
 コメディを中心に150以上の作品を書いた人だ。
 先日、上原ひろみのコンサートを聴いた Teatro Goldoni もこの人にちなんだものだし、世界各地に「ゴルドーニ劇場」が存在する。
 Musium Pass というベネチアの11の博物館美術館に入ることのできる6ヶ月有効のチケット(20ユーロ)と、17の教会に入場できて1年有効の Chorus Pass(10ユーロ) というを持っているので、散歩がてら毎日少しずつ立ち寄っている。
 昼は自宅で、スペゲッティ・ボンゴレ。
 日に日に涼しくなっていて、午後、窓を開け放っていたら半ズボンでは寒くなったので、窓を閉めたほど。
 夕食は、Pizza 2000 で、Pizza Margherita (4.5ユーロ)を買って来て。
 仕事の調子が出ないなあ。