月別: 2011年8月

名取市閖上と川内村

 今回の旅行で、僕は、宮城県名取市閖上と福島県双葉郡川内村の二つの対照的な被災地を訪ねた。
 川内村は福島第一原子力発電所30km圏の中でも放射線量の低い場所だ。
 地震で亡くなった人はいないけれど、住民の9割以上が避難してしまっている。放射能は低くても、仕事もできないし、生活物資も不自由で、ひどく暮らしにくくなっているのだ。避難しないといろいろなお金ももらえなかったりもするらしい。
 村はほとんどの建物の窓は閉め切られ、カーテンも閉まっている。ゴーストタウンでみたいな町に、点々と人のいる場所がある。人のいる家があるとほっとする。
 残っている人は必死に今までと同じ暮らしをしようとしているけれど、家も壊れず、自分の周辺に何の目に見える変化もないけれど、目に見えない放射能によって、人がいなくなり、その結果、暮らしが変わってしまった。
 おそらく将来も変わってしまっている。
 あたりは岩盤の上にあり、いろいろな場所を見せてもらったけど、ほんとに地震の被害は少ない。横浜と大して変わらないといってもいいくらいだ。であるのに明らかに「被害」を被っている。
 一方の名取市は、人口の一割の人が亡くなり、家も店も会社もなくなってしまった。町は跡形もなく消えてしまった。
 見かけ上、何も変わっていない川内村とは対照的だ。
「津波の人は、3月11日で災害が終わっているけれど、福島はいまも災害が続いている」
 福島の人がいうのを聞いた。
 確かに、閖上ではほとんどの土地はから瓦礫が取り除かれ、半壊の家屋は解体され、新たに整地されて更地になっている。
 家も作品もすべてなくしてしまった名取の icoさんは、新しい絵を描き始めているけれど、川内村の人は何もできずにいる。
 川内村では、ほとんど何も壊れていないのに、自分の努力で災害から脱出できるという希望がもてない。希望をもつとしたら、村を捨てて別の土地で人生をやり直す決心をしなくてはならない。
 どちらの災害も大変なことであり、災害の程度を比較することは無意味だけれど、原子力発電所の事故という災害が、いままでの種類の災害とはちがった性格を持っていることだけは確かだ。

川内村 ガイドツアー

 Nさん宅の並びの空き住宅の寝袋の中で目覚める。
 そこは、3月11日の直後、避難してきた人が何人か泊まり込んでいたらしい場所で、その時のまま時間が止まっていた。
 寝具や備蓄物資がそのままで、3月13日付けの地元紙「福島民友」が置いてある。
 その一面の大見出しは「原発建屋が爆発」。
 朝食は、ふんだんなコーヒー、パン、福島の桃、茨城の梨、ソーセージ、など。
 一段落したところで、Nさんに運転を任せて、村内を案内してもらう。
 まず諏訪神社。
 次は相模原6年前に村にリタイア移住して来たOさん夫妻のところ。
 段々畑何段分もの土地を自分の庭にして、野菜や花を育てている。
 今年は放射能のせいで野菜はやめて花をたくさん育てているという。
 庭には林も池もあり、ものすごい種類の動植物が棲息している。そして、自分の庭以外には一切の人工物が見えない自然の借景。
 説明してくださったご夫妻の顔がいちいちうれしそうだった。
 そして、立派なキャンプ場と遊歩道のある高塚高原。
 ここの放射線量はちょっと高くて0.7μSV/hほど。
 キャンプをするにはちょうどいい気候だけど、閉鎖されていて誰もいない。
 
 尾根に並ぶ風力発電の風車を見たかと思うと、沢沿いのワインディングロードを降りる。
 お昼は「天山」という手打ち蕎麦の店。
 小松屋という旅館がやっていて、そこは名誉村民である草野心平が投宿していたという。
 歯ごたえのいいお蕎麦でした。
 ほとんどが避難所のある郡山ビッグパレットに移動して「支所」になっていまった川内村役場の村長室の窓の外には、空間放射線のモニタリングポストがある。
 草野心平が村に寄付した蔵書を収めてある天山文庫。
 和尚さんが逃げてしまって一部が崩れたままのお寺。
 その霊廟の上は、遺族がいつでも位牌を拝めるように無施錠になっている。
 そこに巡回してきた警察が「施錠に不完全な部分があり防犯上望ましくありません」と紙が挟んである。(鍵がかかっていないとわかってしまうではないか)
 その扉を開けると、位牌や燭台が床に散乱したままになっていた。
「かわうちの湯」のとなりにある観光協会の「あれこれ市場」は、農産物直売所のはずだったのに、買う人も売る人もいない今は、がらんとした休憩所になっている。
 少しでも人が集まれるようにということだろう、御菓子と飲み物のセットが100円で、さらにはきゅうりの漬け物がつく。
 強制避難区域から避難してきている割烹料理屋の大将がいて、ここには書けない話をしてくれた。
 駐車場に何台も観光バスが止まっているが人はいない。
 近づいてみると、運転席も客席もビニールで被われている。一時帰宅のためのバスだ。
 汚染地域に入るバスだからこの場所から外へは出ないようにしているのかもしれない。
 タイヤの放射線量を計ってみたが、0.4μSV/h程度で、取り立てて高くはなかった。(除染後だから低いのかもしれないが)
 やがてNさんが道なき道へ分け入ると、ほどなく視界の開けた平原に出た。
 緑の山々が連なっている中に見えるのは、原発からの電力を送り出す送電線。電波時計で使っている電波の送信アンテナ。そしていまは皮肉に見える風力発電の風車。
 Nさんのガイドと運転なしでは知ることのできない川内村ガイドツアーはそこで終わり。
 午後3時過ぎ、お宅まで戻って、そこで暇乞いをして、横浜への帰路についた。「早く帰るよりも楽に帰ろう」を合い言葉に、家に着いたのは午後10時をまわっていた。
(写真はまた別途)

原発まで25km 福島県双葉郡川内村

 目指す川内村は福島第一原子力発電所の近く。
 村の一部は20km圏で現在立ち入り禁止、今夜泊めてもらうのは25km地点だ。
 川内村は人口3000人、現在、村役場は避難所のある郡山のビッグパレットに移動していて(8月末まで)、村民で村に残っているのは発表値で200人ほど。
 上水道はなくてすべて井戸水か引き水だが、光インターネット回線は全村に引かれている。
 郡山JCTで東北自動車道から磐越自動車道へ乗り換え、船引三春ICで下車、山道のワインディングロードを小一時間走ったところの集落に、東京から移住した古くからの友人が住んでいる。
 ラストワンマイル、電話で道を聞きながら峠道を下り少し開けたところから山あいに入ったあたりで手を振る人が見えたのはその友人Nさん。
 そこで村の人たち数人とお喋りをして待っていてくれたわけだ。
「マイクロ・シーベルトなんて言葉は一生知るはずのなかった言葉なんだがね」
「少なくとも自分が生きている間は今まで通り生きていけると思っていたけど、この村には仕事もなくなり、店で商品を売る人もそれを買う人もいなくなてしまった」
 村に残っている人たちはほぼ50歳以上、ほとんどは60歳70歳を超えている。
 暮れていく空を暗くなるまで眺めながら村人たちと話をした後、集会所から未舗装路を少し登ったところにあるNさん宅に到着。
 とりあえず「かわうちの湯」というところに行く。
 木で囲った小屋のようなところかと思ったら、スーパー銭湯のような施設だった。
 通常は1回500円だけど、いまは部分営業なので100円。めちゃめちゃ贅沢な100円だ。
 しかし、もともと経営は赤字続き、災害で状況はさらに厳しくなる。
 Nさんの家には放射線量計が2つあり、本日の測定値は0.3μSV/h 東京の6倍、横浜の10倍ほどあるが、平常時のローマよりほんの少し高い程度。
 おおまかな見積で、僕が94歳までずっとこのままの村にいるとガンになる確率が0.5%ほど高くなる。(この村の放射線量が「ずっとこのままで減らない」というあり得ない多めの仮定をした場合)
 ちなみに、福島に行かず何にもしないときのガンになる確率は約50%であり、それが50.5%くらいになるわけだ。どっちにしても94歳よりも前に僕は死んでいるだろう。
 というわけで、川内村で浴びる放射線は、56歳の僕にとってはまったく取るに足りない量というわけだ。
 七輪でサンマやホッケやイカの一夜干しを焼きながら、夜更けまで一升瓶から宮城のお酒「一ノ藏」をコップで飲む。

名取市閖上(ゆりあげ)

 前日、酔っ払って早寝をしたので、朝5時に目覚める。
 7時過ぎにホテルで朝食。
 朝バイキングにも笹蒲鉾があるのは仙台らしいが牛タンはない。
 午前10時になるのを待って、昨日ギャラリーに立ち寄った「伊達海鮮」へ。
 この店は石巻の魚加工品を土産として売る店。
 安くはないけど上質の、味噌漬け、西京漬け、一夜干し、などを売っている。
 今回の旅は「被災地を見て。被災地でお金を使う」のが目的なので、ふだんは土産など買わない僕も、3750円購入。
 午前11時、ホテルをチェックアウトして、名取市閖上(ゆりあげ)へ。
 ico さんの家があったところだ。3月11日、地震直後、ヘリコプターからの生の映像で津波がやってくるのを見た、まさにあの場所である。
 海から何キロも離れているのに。道路の脇、畑のど真ん中、住宅の玄関、とにかくもう、あたりり構わず漁船やモーターボートが、ゴロゴロ転がっている。
 その数、僕が見たものだけで30以上、いったいいくつあるのかわからない。
 家も流され、田畑も流され、ただの平地になってしまった畑に、今は雑草が勢いよく生い茂っている。もしこれが見渡す限り灰色の土だったらと思うと恐ろしいようだが、植物のたくましい生命力に心が救われる。
 本当なら、そこには稲が実り始めているはずの場所だ。
 どこかから流され運ばれてきた種が芽を吹いたのか、中には稲穂も混じっていた。
 海水に浸かってしまったはずの田端に、雑草でも生えているのは救いだ。そこで稲や作物を本格的に育てることができるのかどうかは、まだわからないにしても。
 草が生えている多くの土地は、農地だったのか宅地だったのか、あるいはそれ以外の土地だったのか、判然としない。
 閖上地区の最先端、漁港を目指すが、途中でバリケードがあり、許可のない車両は通行止め。
 どうやらその地区には、周辺の土地から運び込まれた瓦礫の集積所があるらしく、かなり離れた場所から、大きなぼた山のようになった瓦礫の山が見えていた。
 小説家的には何日でもあたりを見て回りたくなるところだが、次のアポイントのため、仙台市内へ戻る。
 遅疑の目的地は、泉中央駅近くのヨーカドーの駐車場へ。
 被災した上につい最近脳梗塞になって退院したばかりの妻の親戚に会う。
 地下食料品売り場で食料品を買い込んで、午後3時過ぎ、次の目的地、福島県双葉郡川内村へ向かうことにする。
(写真は別途)

被災地旅行

 夏休みの家族旅行は、東北被災地と決めていた。
 被災地を見ること、そして、そこでお金を使うこと。
 午前8時過ぎ、予定より2時間遅れで出発。
 首都高を縦断して東北自動車道。
 日曜日の東北自動車道は渋滞はしないまでも交通量は多い。
 午後2時過ぎ、仙台南ICから仙台空港方面へ。
 飛行機に乗るのではなく、津波の被害を見るため。
 近づくにつれ、瓦礫を積み上げた場所が現れる。
 空港の施設以外は、廃墟か空き地。
 頭上の大きな道路標識の支柱は傾き、標識自体も角が曲がっている。津波に流された物が当たったものだと思われる。
 空港を離れて海へ向かう。
 墓石の崩れた墓地。いくつかは積み直され、生花が生けられている。多くは崩れ、散乱したまま。
 道と宅地の境目が曖昧、土地の区分も曖昧で、ところどころ残る土台のコンクリートがわずかな痕跡として残っている。
 あまりにも何もなくて、ここは何処なのか、ここには何があったのか、わからない。
 カーナビの地図の上に地名が残るだけ。海岸線に堤防が造られている。プールだったらしいところも、寺だったらしいところも、ただの平地だ。
 住宅だったらしい、玄関だったらしい土台の上に、缶コーヒーの空き缶と、ニンテンドーのゲーム機と、ウルトラマンが、並べられていた。
 この家に住んでいた子供のものなのだろうか。その子供は生きているのだろうか。家族は生きているのだろうか。
 午後4時、仙台駅近くのホテルにチェックイン。
 旅を決めて連絡してみたら、偶然に、イラストレーターの ico さんの個展が開かれているという。
 ホテルを出て徒歩で2分ほどのところに、その個展の開かれている海鮮土産屋さん「伊達海鮮」があった。これも偶然、メチャ近い。
 というわけで、いくつかの偶然で、いまは赤羽に住んでいる ico さんと仙台で再会。
 その足で仙台の町へ出て、夕食の場所探し。
 全国チェーンは避けて、地元資本、地産地消のお店。
 結局、いろいろあって最終的に居酒屋「大黒」で飲む。
 この店が大正解。どの料理も美しくて美味しかった。
 ホテルに帰るとバタンキュー。
(写真はあとで)

チーム阿川

 4日ぶりにスタジオに出てきた。
 最初の仕事は鉢への水遣り。(笑)
 午後3時から黄金町地域のアーチストの連絡会議。
 
 午後6時前、都内へ向かう。
 黄金町から大門までは京浜急行と都営浅草線で一本なのだけど、各駅停車と特急を乗り継いだりでけっこう時間が小間切れになる。
 少しでもパソコンで雑用を片づけながら行く。
 徳間書店の編集部に集合した後、「チーム阿川」の飲み会。
 編集、販売、一体となって、阿川大樹を「徳間が売り出した作家」として応援してくれる、という大変ありがたいチーム。大門方面へは足を向けて寝られない。
 午後7時から午前零時前まで、あんなことやこんなこと、さらには新作のアイデア出しまで、あっというまに時間が過ぎた。(もちろんお酒もたくさん飲んだ)
 おまけに最後はタクシーで自宅まで送ってもらう。感謝感謝。

京都国際マンガミュージアム

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 午前8時半起床。
 午前10時、山科の某社オフィスで打合せ。
 昨日行きそびれた先斗町の「長竹」で昼食。
 そこでは粋なお姐さんたちが何人か、稽古とお座敷のあいまに食事をしたり、かき氷を食べたりしていた。
 そのまま、運転手付のレクサスで烏丸御池の「京都国際マンガミュージアム」へ送ってもらう。
 ミュージアムでは特別展示「仮面ライダー展」が。(入館料+特別展で1300円)
 中には小説家の先輩でもあるすがやみつるさんの大きな肖像写真が!
 すがやさんは「ゲームセンターあらし」で有名だけれど、石ノ森章太郎さんが「唯一の弟子」という「仮面ライダー」の作者の一人でもあるのだ。
 石ノ森章太郎さんの年譜をじっくり読んだら、僕は2作目の「ミュータントサブ」から読んでいたようだ。
 僕は高校以降、ほとんどマンガを読まなくなったので、「サイボーグ009」はよく知っているけど、マンガの方の「仮面ライダー」はほとんんど読んでいない。
 ちょうどすがやさんの『仮面ライダー青春譜』を読んだばかりだったので、原画の裏にある、作り手の思いとか生活とかを思い浮かべながら見ていた。
 ミュージアムは、小学校だったところをリノベーションして造られたもので、子どもたちが階段や廊下に座り込んで、無心にマンガを読んでいる姿がとてもよかった。
 夏休みのせいか、ミュージアムの来場者はほとんんど子供たち。いわゆるヲタクの空気はあまりない。
 漢字が多いパネルを、子供のためにお母さんが読み上げていたり、それが美しくて優しい声だったり、ミュージアムにはとてもいい空気が流れている。
 小学生の時はサンデーやマガジンを買うため、発売日に小遣いを握りしめて本屋に走っていったけれど、大人になってからはほとんどマンガを読まなかった僕にとって、マンガは少年時代そのものであり、このミュージアムにはそんな原風景があった。
 地下鉄で京都駅へ出て、コインロッカーから荷物を出して、いつもの赤福を買って、あとは帰りの人となる。もちろん新幹線の中では長編の構想の続き。
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京都をさすらいながら仕事

 午前8時半起床。ほんとはもっと早く目覚めていたけど。
 午前9時、ホテルの朝食バイキング。大根おろしと茹でシラスでご飯、など。
 10時半にホテルを出て、イノダコーヒーで仕事をしようと地下鉄・烏丸御池まで。
 境町三条を目指すと、なんとそういえば京都文化博物館も近くではないか。
 というわけで、博物館別館のギャラリーに勤務する友人を訪ね、博物館で今日まで開催の日本画展の招待券をもらって観覧。
 コーヒー500円のイノダは、経済的にも時間的にも余裕のある人たちの空間で、ほとんどの人が50歳以上(多くは60歳以上)で身なりもこざっぱりしている。
 京都のある種の階級社会の断面、かな。
 初めてイノダに来たのは、ご多分に漏れずシンガー&ソングライター・高田渡の「珈琲不演歌(コーヒーブルース)」に影響されて高校の修学旅行でやって来た38年前だ。(その場所に在った店は今はない)
 だれもが感じることだけど、高田渡という人物やその歌のイメージにまったく合わない、むしろまったく反対の雰囲気の店だ。
 イノダを出た後は、となりの「こだわりのラーメン屋風ラーメン屋(店名不明)」で醤油ラーメン650円。まあ、ふつうに美味しかったかな。
 ちょっと蒸し暑いし、コーヒーばかり飲みたくないので、地下鉄に乗っていったんホテルに戻る。
 アパホテルは連泊の際「ベッドリネンを取り替えなくていい、掃除はしなくていい」と意思表示すると、タオルだけ取り替えてくれてミネラルウォーターを1本くれる。
 家にいたって毎日シーツを取り替えるわけじゃない。リーズナブルだよね。
 世の中には誰もうれしくない過剰なサービスが溢れている。
 午後4時過ぎ、再び外出。
 ヨドバシカメラの1階がとってもお洒落。というか、ヨドバシカメラの中で、京都は建物もいちばんきれいなんじゃないかな。(実は中もすごい)
 というわけで、Delifrance というカフェでフレッシュサンドイッチとコーヒー。(504円)
 長編の構想のつづき。
 座り疲れたので、烏丸三条へ移動して仕事の続き。
 実はもうコーヒーは飲みたくないのでアイスコーヒーを半分残した。
 午後8時前、ギャラリーの仕事が終わった友人(遊眠社の前身である東大劇研の元女優)と合流して「素夢子 古茶家 ソムシ コチャヤ」で韓国御膳。
 京都には多い、いかにも趣味がよいという凝った内装や食器の不思議なお店。(向かいはサントリープロデュースの伊右衛門サロン)
 ヘルシーな料理でアルコール飲料がないのは、女性客ターゲットなのだろう。上品な韓国料理でした。
 
 その後、烏丸四条まで歩き、「HUB」でビール。
 話題は、主として「京都のお大尽」と「現代美術への疑問」など。
 そこで別れて、ひとりで馴染みの先斗町のおばんざいの店まで行ったのだけど、日曜のせいか休みなのか早じまいなのか、入ることができず。
(定休日は水曜日だったと思ったのだが)
 トイレを借りるためにマクドナルドで100円のコーラMを買って休憩した後、タクシーでホテルへ戻る。(950円)
 今日は、結果的に飲酒を控えて1/2パイントのエールだけだった。
 寝るまで、新聞を3誌読む。
 いま家では新聞を取っていないので、紙の新聞をじっくり読むのは久しぶり。

無数の胡蝶蘭

 目覚ましが鳴ったけど、自分の目覚ましだと思わずに寝ていた。それを妻が止めて僕の方によこしたので、やっと自分のだとわかった。(笑)
 昨夜、襟を漂白して干しておいたワイシャツが乾いているのを確認。
 もっているワイシャツの枚数よりも1年の間にワイシャツを着る機会の方が少ないので、洗ってしまっておいても何年かのうちに襟のあたりが黄ばんでしまうのだ。
 シャワーを浴びて、荷物のパッキングをして、少し早めに出発。
 菊名駅で新幹線を1本早い便に変更。
 いつものようにお茶とシウマイを買って京都へ向かう。
 山科駅前のスターバックスで時間調整がてらメールの処理など。
 その間にコインロッカーが空いたので大きな荷物を預けて某病院へ。
 病院の新しいビルの竣工お披露目会。
 PET-CT検査装置、放射線治療用のリニアック、などを見る。
 患者の身体の装置への位置合わせなどについて質問したり。
(ここの精度が出ないと最小のダメージで病巣を除去できない)
 それにしても、御祝いに届けられ並べられている胡蝶蘭の鉢、その数、数百。
 京都中の胡蝶蘭が店先から消えただろうという数。ひとつ3万円として数百万円分の胡蝶蘭が病院の中に新しく並ぶ。
 毎日ひとつひとつ水をやるだけで、人一人で午前中いっぱいかかるのではないか。
 夕方、祇園・石塀小路の和食屋「豆ちゃ」で、暮れゆく五重塔がシルエットになりライトアップされるまでを窓の外・借景にしながら7人で会食。
 その後、祇園四条花見小路のワインバーで深夜まで。

プール

 驟雨の合間を縫ってスポーツクラブのプールへ。
 午後4時のプールは空いている。
 50分ほど、水中ウォーキングとスイミング。
 
 午後7時前、黄金スタジオへ出勤。
 午後11時過ぎ、帰宅。