Diary

川上未映子

 午前5時就寝。
 午前8時20分、目覚ましが鳴ったが起きず。
 やばい! 8時48分、起床。
 午前9時2分、病院の受付に到着。
 同25分、診察終了。(手術後6ヶ月の「定期点検」)
 近くにプロントができていたので、380円のモーニングセット。
 スーパーに寄って日用品や食料品の買い物。
 午前11時過ぎ、帰宅。執筆開始。
 午後3時、近所の中華屋さんでランチ。
 その足でスターバックスへ出勤。室内が暑く眠くなりそうだったので、「本日のコーヒー」サイズはグランデ。
 午後5時近くまで執筆。
 疲れたところで、ブックカフェになっているので、芥川賞全文掲載の文藝春秋をテーブルまでもってきて、 川上未映子の受賞インタビューだけ読む。
 この人の顔、すごくいいと思うんだよね。
 自分ができている。簡単に凝り固まったのではなく、手を広げて辿り着いた顔をしている。などと人様の尊顔を批評するなんざ失礼至極なのだけれど。
 インタビューを読んでも、ブログ(というか公式サイト)を読んでも、セルフプロモーションをきちんと考えている。やっぱり音楽系の人であるということもあると思うけれど、衆目をきちんと集める、ということをきちんと意識している人だ。
 純文学系の人によくある悪いところは、全部、彼女の中では解決されていて、立ち位置というのができている。
 というわけで、小説の方はきちんと読まないといけないので、時を改めることにした。
 夜は夜で、また執筆。
 〆切のエッセイも書いてメールで送付。
 ヘッドフォン、都合10時間ほど鳴らしたと思うのだけれど、いい音になってきました。

「ミリキタニの猫」横浜で上映

 阿川大樹お気に入りのドキュメンタリー映画「ミリキタニの猫」が、これまたお気に入りの映画館シネマ・ジャック&ベティ(横浜)で本日から上映されます
「ミリキタニの猫」
 The Cats of Mirikitani
http://www.uplink.co.jp/thecatsofmirikitani/index2.php
 シネマ・ジャック&ベティ
 http://www.jackandbetty.net/
 231-0056/横浜市中区若葉町3-51
 TEL.045-243-9800 FAX.045-252-0827
 ◆京浜急行線 黄金町駅下車 徒歩3分
 ◆横浜市営地下鉄 阪東橋駅下車 徒歩5分
 上映時間 10:30 14:05  (ただし 2/2 は 10:00 の1回)
 料金 大人1700円 大高1500円 中小シニア1000円

 この映画に関する阿川大樹の映画評は、以下のURLで。
 http://www.agawataiju.com/diary/2006/08/the_cats_of_mirikitani_1.html
 というわけで、すでに見ているのですが、時間を作ってもういちど行きたいと思っています。

大阪国際女子マラソン 福士選手

 去る1月27日の大阪国際女子マラソン。
 福士選手がオリンピック出場権を目指してマラソンに出場して独走したけど、途中から走れなくなって、惨憺たる結果ながらゴールしました。
 彼女は1万メートルとハーフマラソンの日本記録保持者で、立派なアスリートだと僕は思っています。
 しかし、マラソンにおいては全然だめでした。
 オリンピックアスリートというのは、結果の世界で勝負する人であって、他人を感動させる女優やエンターテイナーではない。24時間テレビの欽ちゃんとはまったくちがう。
 だから僕は彼女を評価しません。実際、見ていて感動もしませんでした。
(高橋尚子がきらいなのも「みんなに元気をあげるために走る」みたいなことをいうからです。「自分が勝つために走るんです」といってくれたらいいのに)
 準備期間が一ヶ月だったとか、練習でも40Kmを走ったことがなかったとか、とんでもないことが伝わってきます。
 チャンレンジは否定しません。
 しかし北京オリンピックがあるのはずっと前から判っている。
 僕の友人知人にはマラソンを完走した市民ランナーは何人もいますが、異口同音に「ハーフマラソンとフルマラソンは全然違う」といいます。
 マラソンはハーフマラソンの二倍なのではなくて、まったく別の競技であることは、広く知られていることです。
 僕自身、フルマラソン完走のためにトレーニングしたことがあるので、マラソンを走りきることがどれだけ大変であるかそれなりにわかっているつもりです。
 でも、福士さんは40Kmを走ったことがない ???
(そりゃあ市民ランナーには42Kmを初めて走るのがレース当日という人はたくさんいます。なにしろ完走するのに7時間かかったりしますから、ふつう練習時間が確保できません)
 個人として、どのようなアプローチをしようとそれは自由だけど、結果がすべての競技の世界で、素人の僕から見たって準備の仕方がまるっきり間違っていて、やはり結果もその通り。
 競技で生計を立てている人のことを「最後まで走って立派だった」なんていっちゃいかんです。
 マラソンを最後まで走ること自体は立派です。
 そういうレベルの立派な人は僕の知っているだけでもたくさんいる。テレビに映っているから立派なんじゃない。何万人も立派な人はいる。僕はできないからそれができる人をもちろん尊敬しています。
 でも、あの場所はそういう場所じゃなくて、オリンピックアスリートを選ぶ場所だから、その基準で評価しなくちゃ。
 急にマラソン代表になりたくて、時すでにレース一ヶ月前だったとして、残り枠は事実上一人だとして、まだ高橋尚子もこれから走るという状況で、そのような条件の中、代表選手になるためには、ぶっちぎりのタイムで優勝するしか道はない。だから最初から飛ばして神憑り的な結果に賭ける、という戦術しかなくて、それを実行したのは妥当だと思います。
 彼女が選ばれるとしたら、つぶれるリスクを覚悟の上で飛ばしていくしかない。最初から飛ばしたのは妥当な戦術ではある。
 それを一か八かで実行してダメだったということです。誉めるような要素はどこにもない。
 中学校の全員参加のマラソン大会だったら僕も誉めます。
 でも、オリンピックアスリートを選ぶ場所で、福士さんより上位にいる人よりも彼女が立派だとはまったくいえない。
 福士さんがあの瞬間なりにがんばったというのは事実だけれど、むしろ、彼女より先に倒れずにゴールした人の方が、福士さんよりずっとずっとがんばったのだということを忘れてはいけない。
 結果じゃなくガンバル人を誉めるのだというなら、やっぱり福士さんより上位の人を誉めるべきだと思います。あんなところで倒れてしまう福士さんは、むしろ頑張り方が足りなかったからああなったのです。
 テレビ局にとっては大喜びのシーンでした。
 自分の目にどう見えるかではなく、見えないところで何が起きているか。福士さんより前を走った人が、どれだけのことをしていて、福士さんには何が足りなかったのか。
 テレビを見てそれを考えないと真実を見誤ります。
 テレビに映っているものがすべてではない。
 ところで、努力は自分のために必要だからするのであって、努力そのものに価値があるわけではありません。
 子供の教育の過程では努力の必要性を教え成功体験を身につけさせるために努力を誉めるのは必要なことです。大人の世界では結果を伴わない努力は認められない。
 努力を誉められる人にはなりたくない。そういう自戒をこめて。
 当日のトップ10は以下の通りでした。
 阿川大樹は福士さんを讃える代わりに、以下の方々を讃えたいと思います。
  大阪国際女子マラソン成績     時 分  秒
  〈1〉ヤマウチ(英)      2.25.10
  〈2〉森本 友(天満屋)    2.25.34
  〈3〉モンビ(ケニア)     2.26.00
  〈4〉大平美樹(三井住友海上) 2.26.09
  〈5〉扇 まどか(十八銀行)  2.26.55
  〈6〉シモン(ルーマニア)   2.27.17
  〈7〉奥永 美香(九電工)   2.27.52
  〈8〉藤川 亜希(資生堂)   2.28.06
  〈9〉トメスク(ルーマニア)  2.28.15
  〈10〉ドネ(仏)       2.28.24

書きたい小説と売れる小説

「売れる本と書きたい本のどちらに重きを置いていますか」
 と、まあ、そんなふうな質問を戴いたことがあります。
 ところが、僕の中で書きたい本と売れる本は対立概念じゃないので、「どちら」という感覚は全くないのですね。
 まず書きたいことはものすごくたくさんある、ということ。
 書きたいことが少ししかないと、それが売れなさそうってこともあり得ますが、書きたいことがたくさんあるから、そのなかには売れる可能性が十分にあるというものもたくさんある。したがって、売るために書きたくないことを書く、ということが生じるとはまったく思っていません。
 では、書きたいものの中で売れそうにないから書けないものはあるか。
 ある時点ではそれはあります。
 たとえば、修業時代が長いですから、書き上がった長編短編が何作かあります。それぞれ書きたかったものを書いた。でもって、まあ、いろいろな事情でいまは売り出せないということはある。
 先日の推理作家協会のパーティでも、とある編集者からこんな質問を受けました。
「**の小説、いまどうなってますか?」
 **というのは、デビュー前にその出版社に持ち込み、某賞の応募作としてその編集者に読んでもらった作品のことです。数年前のことですが覚えていてくれたんですね。
「いやあ、***だったりしてなかなか出せないんですよ」
「あれは面白いから、多少手を入れた上で何年かしたら出版できますよ」
 と、いうわけです。
 すべては基本的に阿川大樹のネームバリューの問題です。
 阿川大樹という名前で買ってくださる読者が増えれば、出版社の方からぜひうちで出版したい、というようなことを必ずいってくるようになる。
 どんなに売れっ子になっても、すべての出版社がなんでもいいから原稿をくれというわけではありません。
 5000部でも採算が取れるけど、どうせなら5万部、できれば50万部と要求水準もそれなりに上がっていきますから、「そっちじゃなくってどうせならこっちで行きましょうよ」ということになる。
 ですが「いい小説」という概念に沿うかぎり、どこかにそれを出したいと思ってくれる出版社はいる。そういう小説を求めている読者も必ずいる。
 しかし、そういう出版社にしてもリスクを負えないから、おいそれとは出せない。でも、阿川大樹という作家にネームバリューがつけば、少なくとも損をしないくらいには売れるようになる。つまり自分の力で出版社のリスクを減らすことができる。
 売れる作家になれば、(出して損をするほど)売れない小説というのはなくなるので、書きたい小説が(程度の差こそあれ)すべて売れる小説になる。
 作家は自分の力で「売れないと思われた本」を「売れる本」に変えることができる。なので、書きたいことがたくさんあり、それで売れていくことができれば、基本的に書きたい本はやがてちゃんと世に出せる。
 いま売れそうにない本は、それなりに売れる本に変えてから(つまり阿川大樹にネームバリューを付けてから)売り出せばよい。
 新製品を出すときには、製品を今の需要にマッチさせるか、あるいは、製品を売るために需要を創出するか、すればいいわけです。
「阿川大樹の小説」という新しい市場ができれば、そこで商品化が可能になる。市場のないうちに無理に新製品を出す必要はない。
 いかにも売れなさそうな小説しか書きたい小説がない、という作家の人はこれはかなり悶々とすることになるでしょう。自分の中で「売れる本」と「書きたい本」が対立しちゃいますし、編集者もそれを感じとりますから。
 阿川の場合は、さいわいそういうことはないので、とにかくどんどん書いて、実績を積むことが、さらなる自分の自由度を獲得する武器にもなる、と考えているわけです。
 そのために個々の作品毎に待ち時間ができることは全然問題ない。
 そもそも書きたいものというのは、たとえば中学生からもっていたものであったりするわけで、すでに四十年くらい体の中にしまってあるものだってある。この先十年余計に温めておいてもどうってことないですし、それまでのあいだ、別の「売れそうな書きたいこと」をどんどん書いていればいい。
 はたして、結果が思った通りになるかどうかは、すべて日々書いている作品の結果にかかっている。毎日がその戦いの一部であるし、もしかしたらそれは綱渡りでどっかでハシゴを外されてそのままお陀仏なんてこともあり得ますけれど。
 分野こそちがうけれど、イチローや松坂と同じプロの世界にいるわけだから、当たり前のことです。
 プロである以上、一打席一打席、一球一球が、勝負。
 そして書きたいことを書ききるまでこの世に生きているということ。
 あと、ついでにいえば、「根拠のない自信」というのも腕一本のプロフェッショナルに必須の才能だと思います。(笑)

野毛でサボリNight

 昨晩は心身共に疲れ気味だったので、野毛へお出かけ。
 まず書いている部分を印刷して、デニーズで赤入れ。
 コーヒー220円おかわり自由。
 夕方五時を過ぎて、焼き鳥「末広」へ。
 この時刻でほぼ満席だ。
 末広は評判の店で名前は知っていたけど僕は初めて。
 安いしネタもいいし食べ物としては美味しいのだけれど、まったく焦がさない焼き方なので、焼き鳥らしい香ばしさがないのがおおいに不満。
 店に煙が立っていないんだもん。
 都橋商店街の「華」に流れ、最後はショットバー「日の出理容院」。
 日の出理容院はむかし床屋だった店構えそのままで外にはバーともなんとも書いていないのだけれど、中にはいると女性のバーテンダー一人でやっていて、ジャズがゆっくり流れている普通のショットバー。
 ここも初めてだったので、バーテンダーの腕を知るために、「ラムでなにかショートカクテルを」と頼んでみた。
 はたして出てきたのはXYZだった。ずいぶん甘くて僕の好みじゃない。
 チャージがなしで、2杯で1200円は格安だから、カクテルじゃなくてウィスキーなどをショットで飲むならいいと思う。
 仕事しないと目も含め、体が楽だ。
 朝型で暮らしているので、午後9時を過ぎると眠くてだめ。

「問題小説」2月号

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(クリックすると拡大します)
「問題小説」2月号(徳間書店)、いよいよ明日(1月22日)発売です。
   巻頭グラビア 阿川大樹・赤レンガ倉庫にて (合計3ページ)
  「ショウルームの女」阿川大樹 短編ミステリー 50枚
文芸雑誌(小説誌)初登場。巻頭グラビア独占(笑)ももちろん初。
売ってるところには普通に売っていますが、売っていないお店もかなり多いのです。すみません。

映画『ミッドナイトイーグル』

 阪神淡路大震災の日。
 朝日新聞には、神戸在住の作家・高嶋哲夫さんの「地震の日」をイメージした小説(?)が32面前面をつかって掲載されている。
 神戸観光特使でもある僕は、地震の被害から復興をめざす長田地区の商店街なども視察したことがある。『D列車でいこう』にも、主人公・由希も学生時代にこの地震を体験したときの描写がある。
 夕方、肺ガンで療養中の伯父の訃報が入る。昨年正月には叔父が亡くなっていて、父親の兄弟はついに伯母一人になってしまった。
 それにしても、僕の親類はガンだらけ。
 死亡原因の第一位だから死因が癌であるのは当たり前なのだろうけど。
 ちょうど高嶋さん原作の映画『ミッドナイトイーグル』をまだ見ていなかったので、近所の映画館のスケジュールを調べたら、おっと、明日18日までとなっているではないか。
 執筆に行き詰まっていることもあって、レイトショーで観る。
 原作を読んだのはかなり前で細かなことはそれほど覚えていないのだけれど、映画の印象は小説よりも自衛隊や政府が好印象に描かれている。映像的に自衛隊の本物の車両や航空機をつかう関係で、テイストがかえられているのかもしれない。
(だからといって、そうした変更が悪いわけではない)
 後半は、これでもかと泣かせるシーンを詰め込んであり、大仕掛けでありながらかなりウエットな映画でもある。
 小説の方が面白いと思うのは、僕が小説の人だからかな。

山場

 原稿用紙300枚を過ぎて、筆は止まっている。
 大きな枠は書き終わっている。
 その部分から読者に与える情報から、読者が自然に疑問に思うことを列挙する。
 読者は最後まで読むうちにそれらの疑問が解けていくであろうと期待する。
 その疑問と、解けるであろうという期待、それこそが本のページをめくらせる力になる。
 そして、最後に、読者が永らく持っていた疑問に答が与えられる。
 その瞬間にカタルシスを感じる。
 あるいは、答を途中で読者には与える。主人公には与えない。
 読者は主人公を天から見ている神になって、無知な故に危険を犯す主人公の行動を見ている。ハラハラドキドキして応援するのだ。
 最後に、主人公自身が取るべき道を見出し、自分の力であるべき行動をとり、難局を打開する。そこで読者がカタルシスを感じる。
 どちらにしても、いま与えられた状況が最終的に合理的なものにならなければならない。いま疑問が生じている理由をはっきりと作り出して、それをできるだけ自然に読者に与えなければならない。
 疑問の答が途中に合理的なかたちで読者に与えられず、最後になって関係者全員が集まる断崖絶壁の上で超越的な探偵役の人物によって与えられると、小説の世界では「2時間ドラマみたい」だと笑われてしまう。名探偵コナンで「おっちゃん」に語らせるアレのことだ。
 専門用語でそのような探偵を「機械仕掛けの神」(Deus ex machina)という。
 物語がこんがらかってわけがわからなくなったのを突然出てきた神様が説明してしまう、という紀元前5世紀頃のギリシャ悲劇の手法であり、21世紀の日本では「ご都合主義」と呼ばれる。
 できるだけ大きな謎を断崖絶壁のシーンを使わずに納得させるのが、小説の技術なのだけれど、突飛なシチュエーションほど、それはむずかしくなり、しかし、突飛なシチュエーションであるほど、物語は面白くなる。
 現実には理由があって事件が起きる。時に小説家は事件を起こしてから理由を考える。
 神様に語らせないと説明できなる危険と賞賛は紙一重。
 さて、事件は起きた。いま、その理由を考えている。
 主人公や読者が何故なのだと思うように、いま、作者も何故なのか、どういう背景ならいまの状況に納得がいくのか、それを考えている。
 だから、文字は埋まっていかない。
 一枚も書かない時間に、物語の重要な部分を作り出すのである。
 なんてことを書きながら、頭の中を整理して、そんな作業を実際にしている。
 ヘッドフォンで、ブラームスの1番とかベートーベンの7番とかを聴きながら。
 2曲聴き終わったくらいでは思いつかない。
 あと1分で解決するかもしれないし、何日、何週間かかるか、わからない。だから苦しい。しかしここが小説を書く楽しさのハイライトでもある。
 ダイジョブか、この物語。
 いまはまだダイジョブじゃない。でも、ダイジョブなはずだ。

物語の作り方

 途中、けっこう飛んでいるけど、最後までいったので、切れているところをつなぐためにも、いったん推敲を始めている。この時点で、自分の小説の全体像を把握するため。
 物語を面白くするには、順序立てて積み上げるより、「こうなった方が面白い」ということを書いてしまって、「こうなる」必然性はあとから頭をひねってなんとかつじつまを合わせるほうがいいことが多い。
 順序立てて積み上げると、当たり前のことしか起こらなくなるから、物語のダイナミクスが足りなくなる。
 ちょっとあり得ないようなことを書いてしまって、あとづけで、そういうことになるには、どんなことが途中で起きればいいのか、とか、この人物がどんな過去をもっていればいいか、とか、そういうことを後から作り込んでいく。
 かなり無理なことでも、3日くらい腕を組んで考えれば、たいていはなんとかなるものなのだ。神様は必ずやってくる。(はずだ、いや、たぶんそうなる、いや、お願いだからそうなってくれ)(笑)
 ドキュメント“考える”「ベストセラー作家 石田衣良の場合」(12月25日(火) 23:00~23:30 NHK総合)
という番組を録画で見た。
 番組の中で、石田衣良が「ガチョウ」「草書」「光学」の三つを必ず入れるというシバリで「自殺願望のある少女が読んで自殺を思いとどまるような童話」を48時間以内に書く、という「お題」を与えられ、そのプロセスをドキュメンタリーにした番組だ。
 こういう一見したところの無理難題というのは、小説家にとっては、それほどどうってことはなくて、むしろ、無理難題こそが物語が面白くなる原因のようなもので、むしろ自ら自分に与えた方がいいようなことだと思った。
たとえば、 無関係な単語を3つ並べてみる
 A) スコットランド
 B) 南極
 C) 離婚
少し言葉を膨らませると、こうなる。
 1)グラスゴー(スコットランド)の酒場で男が飲んだくれている。
 2)昭和基地に女性新聞記者が泊まり込んで取材をしている。
 3)地球最後の日に、東京で離婚する夫婦がいる。
 この3つが、ひとつの物語のなかで終盤になってつながってきたら、絶対に面白くなるぞ、という予感がする。遠く離れたものがつながるときには強いカタルシスが生じるからだ。
 ならば、この3つを書きはじめてしまい、じゃあどんなことが途中に起きればこれらがつながるかを必死にあとから考える。
 3つなら3つをリアリティをもたせて描いてしまう。
 300枚使ってそれを書く。しかるのちに、3日くらい腕組みして考えれば、のこり200枚くらいで、それらがつながり、500枚の小説がたいていできてしまう。
 もちろん、それは簡単なことではないのだけれど、「できる」ことさえわかっていれば、あとは精神と肉体をつぎ込めばいいだけの話だ。
 将棋のプロが現在のコマの配置から「詰む」という直感が先に働いて、それから実際の詰ませ方を読んでいくと、やっぱり詰んでいる、というのに似ているかもしれない。そして、「王将」から離れたところにあった、一見したところ無関係に見えた「歩」が大事な役割をしたときに、将棋の面白さが表に出てくるわけだ。
 フィクションによるエンターテインメントの作り方として、そういう順序を取る作家はけっこう多いと思う。石田衣良さんも、与えられた直後は何のプランもないとしても、それほど困りはしなかったのではないかと思う。
 関係ないけど、石田衣良の仕事場のイス(アーロンチェア)とキーボードが、僕のと一緒だった。
 同じイスを使っている作家を他にも何人か知っている。

280枚まで

 元旦は、妻の実家へ、お節料理をもって出かけた。
「イグレック」のお節は20種類以上のオードブルの詰め合わせで、しかも、そのどれもがちがう味をしているのがみごと。
 車なので、お酒が飲めないのが残念。逆に車で行くには道の空いている元旦がいい。
 帰宅後、少し気が抜けていて、深夜になってから執筆開始。
 長編は、280枚までできた。
 あと、50枚ほどでラストまでいったん書き上げ、途中、虫食いでつながっていないところを100枚か150枚書く予定。
 ちと夜型になっているのは、昼間用事があるのと、人と話をすると小説のテンションがまったく消えるのでしかたがない。(基本的に執筆には孤独な状態が必要)