音楽

ギターの話

 昨日、打合せが終わって、久しぶりの神保町。
 まずは、朝食(午後五時半だぜ)に立食ソバ。ど~んと「かき揚げ天ぷらそば」三百三十円。安い! 味もよろしい! 神保町恐るべし。
 あとは、本屋の匂いを嗅ぎつつ、駿河台下からお茶の水にかけて楽器屋めぐり。この界隈は楽器屋と本屋がたくさんあって、僕にとってはディズニーランドのような場所。
 以前は、この手の楽器屋におっさんが入ると場違いな感じで、店員の視線も冷たかったのが、最近ではすっかり様変わりで、おっさんたちが若い頃に買えなかった高額な楽器をばんばん買うので、店員の目がきらりと輝くのがわかる。
「ギブソンでしたら二階三階にもありますので」
 二階には新品のギブソン、三階には中古のギブソンがあるのだ。高い楽器のフロアに客を誘導しようとする店員。
 二階へ上がると、案の定、Gibson ES-335 (いろいろあるけど三十万円くらい)を弾いている白髪交じりの会社員風の男性がいた。
 演奏の腕前は僕の方がじょうずでした。(笑)
 ちなみに、ギターはメンテナンス状態がよければ時間が経つほどいい音になるので、ギブソンの場合、中古の方が高い。
 
 僕が十八歳の時に買った八万円のギターは三十五年経っていまはすばらしい音になっている。たぶん新品の二十万円のギターに劣らない。
 その他、オークションでいくつかギターを買っているけど、選ぶ基準は「古くてキズの多いもの」。
 オークション価格五万円以下のギターはふつう若い人が買うので、「新品同様」とか「美品」というのに高い値がつく。つまり新品は買えないけど、できるだけ新品に近い中古が欲しいわけ。
 ところがこちらはできるだけ安くていい音が出るギターが欲しいので、傷だらけで古いほど可能性を秘めていると判断する。同じ年数でも弾き込まれた楽器の方がよく鳴るようになっているので、たくさん弾かれてキズが多いものはいい音がする可能性が高い。(あくまで可能性)
 僕が買うのは「高くはないがしっかりした楽器」で定価で六万円から十五万円のものだけれど、およそも二,三万円台で買って、新品よりはいい音になっているもの。三十年以上前の定価二万円のクラシックギターをヨット用に九千五百円で買ったものは、音としてはいまの新品なら三万から五万円くらいに相当すると思う。
 この日の楽器屋でも、製造は三十年ほど前と思われる一見キズだらけのボロボロのギブソンが三十八万円で売られていた。新品よりむしろ高い。
 ちなみに昨日届いたギターは一九九九年のものでまだ新しすぎる。

歌について、言葉について

 昼間のうちは映画化関係のメールのやりとり。
 夜になって本気モードの執筆開始。
 すっかり川上未映子に影響を受けてしまってます。
 自分が執筆モードなので、彼女の小説はまだ読んでないけど、音楽の方で。
 そういう意味では川上未映子ではなくミュージシャン名義だから「未映子」の影響というべきか。
(さらにいえば「未映子」を名乗る前の「川上三枝子」名義のアルバムも、純正ロックでとってもいい)
 言葉自身のもつ力というか魂みたいなものについて考え込む。
 未映子の歌が滲みる。彼女の歌い方も言葉を音としてではなく言葉として(へんな表現だけど)送り出そうという歌い方なんだな。
 こういう風に、言葉に入り込んでしまうのは、エンターテインメント作家としてはたいへんよろしくないわけです。純文学へいってしまっては、僕の目指しているキャリアはまたリセットになってしまう。53歳でやっとここまできて、いまさらリセットしている人生の残りはないからね。
 なので、かなり困ったな、と思ったんだけど、ふと気づいた。
 そう、言葉を大切にするなら、歌の方でやればいいじゃないか、と。
 そんなわけで、猛烈に歌をつくって唄いたくなっている。
 いまの長編が書き上がったら、一曲、書こうと思う。
 ん? 確定申告? それもあるんだよな。まったく。 浮き世はままならぬ。

ミュージシャンとしての川上未映子

 昨日、スターバックスでインタビューを読んだ川上未映子。
 芥川賞受賞作の冒頭部分も少し読んで、改めてじっくり読もうとそこまでにしておいたのだった。
 本人、文筆歌手を名乗っている。
 で、今日は彼女の歌を聴いている。
 まず、楽器としての声の質がいい。
 さらに曲全体にわたってニュアンスの作り込み方にセンスがある。
 その上、それを伝える表現力がある。
 宇多田ヒカル以来の感動! この人はスゴイ。
 小説と音楽。
 僕のやりたいものの才能を高いレベルで持っている。
 いいなあ、素直に、この才能に嫉妬します。
 僕はだいたいオレ様な人間なので、あまり人を崇拝したり心酔したり権威を頼りに選んだりしない人だと思うけど、この人はスゴイ。

ジャニス・イアン

 最近、CMで Will You Dance ? が流れるので、昨晩あたりから Napster で、ジャニス・イアンを聞いています。
 ジョニ・ミッチェルもそうだけど、このあたりみんな健在で、それぞれにちゃんと進化を遂げているんだなあ。
 Will You Dance ? といえば、テレビドラマの不朽の名作「岸辺のアルバム」です。
 なぜか「あなたバナナジュース好きね」というセリフが頭に残っています。
 代理人からメールが来て、原作料の一部が近々に入りそうなので、かろうじて年が越せそうだ。(笑)

究極のカルテット

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聴いてきました。
THE QUARTET featuring Herbie Hancock
 ハービー・ハンコック(pf)
 ウェイン・ショーター(sax)
 ロン・カーター(bs)
 ジャック・ディジョネット(dr)
   会場:パシフィコ横浜国立大ホール
 マイルス・デイビス・クインテットからマイルス(死んじゃった)を抜いて、ドラムを後期VSOPのディジョネットに入れ替えた、モダンジャズの歴史上最強の4人。
(クラシックで言えば、3大テノールみたいなものか)
 すごい演奏だった。
 これがジャズなんだと思った。
 4人が出しゃばらないで音が少ないのにまったく過不足がない。
 余計な音を出さないんですね。
 そればかりか、むしろ、意図的に音を抜く。
「巨匠」といってもいい連中なのに我も我もとソロを取り合ったりしない。
  (この部分、三大テノールとはぜんぜんちがう)
 お互いに、自分が弾かないで、その音を別のだれかに弾かせようとするようなマイナスの駆け引きをする。
「ほうら、君だったらここのすきまにこういう音を入れたいだろう? どう?」
 そんな挑発を続けていく。
 で、時には4人のだれも弾かない。
 たとえば、マイファニーバレンタイン。
 だれもメロディーを弾かない。なのに、聞いているうちにマイファニーバレンタインの曲だとわかる。いろいろアドリブを入れてわざと「……バレンタイン」のメロディーにある音だけ飛ばす。
 そうすると、そのうちに、聞いているこっちの頭の中に「……バレンタイン」のメロディが生まれてくるわけ。聴衆が5人目の脳内演奏者になる。
 つまり「ドレミファ」と、演奏すると、聞いているこっちは次に「ソラ」を予想する。ところが予想だけさせて彼らは実際に「ソラ」の音は出さない。
「ドレミファ」と演奏することで空白で「ソラ」の音を出しているわけ。
(この説明でわかるかなあ)
 そうして巧みにテーマになっているメロディをつくる音をよけて周囲の音だけを出していくと、なんと、きいているこっちの頭に、ちゃんと「マイファニーバレンタイン」のメロディーが生まれてくるんですよ。
 メロディのメス型を演奏する、というか、白地に黒で字を書くかわりに字の部分を白く残して周りを黒く塗ることで、黒地に白で書いたようにメロディが表現されるというか。
 音楽でこんなことできるなんて、思わなかったよ。
 こんな演奏がありうるなんて考えたこともなかった。
 ほんとにスゴイ体験でした。

リー・リトナーと映画「パッチギ」

 横浜赤レンガ倉庫まで25分ほど歩く。
 午後8時40分到着。
 Motion Blue Yokohama で、リー・リトナーのライブ。
 ステージ上手(かみて)、ドラマーの後ろの席。目の前2mにドラマーの背中が見える。
 ほとんどすべてインプロビゼーションですごくいい感じの演奏だ。
 ドラマーの後ろにいると、ジャズの演奏の場合、メンバーみんながたびたびドラマーを見る。アドリブの受け渡し、リズムの切り替え、など、アイコンタクトで演奏を続けていくからだ。
 となるとこの位置にいると、まるで自分がステージにいる感じで、演奏者と頻繁に目が合う。
 もともと音楽を聴くとき、クラシックでもジャズでもロックでもいつも自分もいっしょに演奏しているつもりで聴くのだけど、今夜は、特別にそのライブ感が強烈。聞いている音も、ほとんどドラマーが聞いているモニタースピーカーの音だしね。
 しかし、いい演奏を聴くとめちゃんこ疲れる。
 なにしろ、ミュージシャンと同じテンションで、すべてのプレイヤーのすべての音を聞いて、自分がそこに後を重ねるつもりで聴いているわけだから。
 後ろの席には井筒監督の作品『パッチギ』の主演男優・塩谷瞬が座っている。
 ステージのちょうど反対側、下手(しもて)のピアノの後ろには杏里がいる。
 実は、ちょうど日曜日の深夜に『パッチギ』を録画したところだった。井筒作品は見たことがなかったのだけれど、井筒監督の奥さんとは酒の席でいっしょだったことがあって、パッチギ見てねと言われていたのであった。
 ライブでぐったり疲れて、また、徒歩で帰宅。
 歩いていけるところで、リー・リトナーを聴くことができるなんて、ああ、なんてシアワセ。

TSUTAYA みなとみらい店

 
 すぐ近くに TSUTAYA と Starbucks Coffee が開店した。
 100円割引券の10枚綴りをもらったので、さっそくCDを1枚だけ借りてみる。
 1回につき割引券1枚しか使えないので、1回にCDも1枚しか借りないようにする。
 そうすれば当日返却270円が170円になるというわけだ。
 借りたのは Michel Camilo & Tomatito のアルバム “Spain” 。 ピアノとフラメンコギターの競演するラテンジャズだけれど、なかなかいいです、このアルバム。
 午前2時までオープンしているはずなので午後11時過ぎに返却にいったら、まだプレオープンなので、8時に閉店だった。そういうのは貸すときにちゃんと言ってくれ。宣伝のチラシにはそうは書いてなかったぞ。こっちは痛い足を引きずってわざわざ行っているんだから。
 CDは返却ポストに返却できたけど、2時間ほどスターバックスで原稿を書こうと思っていたのに、できなかった。

今夜は John Denver

 本来なら「横浜市長杯ヨットレース」に運営艇に乗るはずだったのだが、足の大事をとって休ませてもらう。
 というわけで、日曜の昼間にひきこもり生活。
 長編のアイデアは「少しずつ形になる兆し」(微妙な表現)を見せてきている。
 昨夜は、長閑にベンチャーズなどを聴いてみたのだけれど、本日は John Denver だ。
 デンバーというのはコロラド州に州都なので、John Denver というのは、たとえていうなら「仙台太郎」みたいな名前で、日本の演歌に相当するカントリーミュージック。
 ちなみに、本名はヘンリー・ジョン・デュッチェンドルフJr. 生まれはコロラドではなくニューメキシコ。
 大ヒット「故郷へ帰りたい」”Take Me Home, Country Roads”によって富を得てコロラド州アスペンに移り住んだ。
 そういえば、今はなき六本木のカントリーミュージックのライブハウス「Mr.James」(女優加賀まりこのお兄さんの経営)のレギュラー、ジミー時田は、この曲を”Take Me Home To the Country Road”とずっと間違えていたっけ。
 そういえば、John Denver も飛行機事故で亡くなったんだな。僕の好きなもう一人のアコースティック系ミュージシャン Jim Croce と同じだ。
 星になったアーチスト、というやつ。

ダイアン・シュア

 13日の金曜日。
 青山「ブルーノート東京」で、ダイアン・シュアのライブ。
 彼女の歌を初めて聴いたのは、20年くらい前、コンコード・ジャスフェスティバル(カリフォルニア)だった。
 そのころから、ずっと安定したパフォーマンスを保っている。
 当時に比べると、ピアノはずっと進歩してきていて、とっくに弾き語りのレベルを超えて、ジャズピアニストであるといっていい。今日も、ベース、ドラム、ギターに彼女自身のピアノを加えたカルテットで、いい感じだった。
 彼女は全盲なのだけど、だれも彼女のことを「盲目の歌手」などとはいわない。だって、目が見えるとか見えないとかは関係ないから。スティービー・ワンダーもそうだけど。
 上質の時間が過ごせてシアワセ。
 実力はすごいのに、ダイアン・シュアは日本ではそれほど有名ではない。
 そのせいか、音楽を名前ではなく「自分自身の耳で聴く人」たちが集まっている感じ。女性一人で来ている人もけっこういて、なんか自立したカッコイイ女性が多かった。
 途中の手拍子でも聴衆のレベルがわかる。アフタービートに完璧にみんな揃っていて歯切れがいい。しかも、ドラムがディレイをいれてもシンコペーションしても、手拍子はぴったり安定して刻んでいて、ぶれることがない。音楽をわかっている人だってことだ。
 それにしても、表参道の駅からブルーノートまで、10分ほど歩くのが辛かった。途中のドトールでひとやすみ。帰りは渋谷までタクシー。

歌手 小林淳子

 午後6時半をまわったところで、「なかの芸能劇場」へ。
 友人の中でもっとも芸術家肌であり(笑)、最年長の女友達(再笑)でもある小林淳子さんのコンサート。
 昨年9月に4年のブランクからライブ活動を再開して、9ヶ月を経て同じユニットで二度目のライブ。淳子さんの音楽はジャンルの定義が難しく、ほとんどの歌のタイトルはシャンソンなのだけれど、バックのベースとピアノは完全にジャズなので、フォーマットはジャズと言っていい。高音の囁きと、太く存在感のある低音が特徴。
 シャンソン歌手のほとんどは様式化ファッション化していて歌がひどく下手なので、淳子さんをシャンソン歌手とは紹介したくない感じなのだ。どうしても何かキーワードで記述するとすれば、シャンソンのナンバーを唄うジャズシンガーとでも言うべきか。
 昨年9月の演奏は、ブランクのあとの迷いや硬さがあったけれど、今回は伸び伸びとステージにいて、バックとの緊張感もあって、すごくいい演奏になっている。
 久々に音楽を聴いて涙が出た。
 60歳を超えているはずなのに、ステージの上で、深く切れたスカートのスリットからのぞく脚からさらにその上を想像したいと思わせるる「女」でいるというもスゴイ。
 休憩を挟んで2時間のステージは、きちんと作り込まれた高い音楽性と瞬時の共鳴による即興性の両輪で支えられていて、ほとんどダレることがなかった。