クジラが港に迷い込み、それを外へ出そうとしていた人が亡くなった。
クジラが狭いところに迷い込むのは、頻繁にあるわけではないけれど、クジラの習性の一部で、別に異常ではない。
それを人間が外へ出す必要はないと思う。
中にいられちゃ迷惑だというのが本音だ、というならわかるけれど、「救う」という発想が本当なら、それは人間の奢りだと思う。
人間が見ているところでもそうでないところでも、野性の生物は産まれ、いろいろな理由で死んでいく。それが自然というもので、そこに人間が介入するのはおかしい。たまたま目に見えている自然を、人間が自分の思うとおりにしようとする。その発想が好きではありません。あえていうなら、それは自然破壊だと思う。
クジラが死なない自然なんて、この地球にはない。
なぜ、クジラの死を自然の一部として見ていられないのか。
クジラは多くの小さな魚類の天敵だから、クジラが死ねば代わりにエサになる生物が救われる。クジラが死ぬのはかわいそうで、クジラが生き延びることでエサとして食べられるイワシはかわいそうではない、というのは、人間の勝手な感情であって、クジラを救うことは自然を救うことでもなんでもない。
自然というのは、だれかが生きれば代わりにだれかが死んでいく、そういうものではないですか。
亡くなった方はお気の毒だけれど、彼のやろうとしていたことに僕は賛成できない。やるべきでないことをして命を落としたから、よけいに痛ましい。
それにしてもライフジャケットをしていなかったなんて、自然をなめている。自然は、胡散臭いヒューマニズムの場所ではなく、野性の場だ。海も、クジラも。体長15mのマッコウクジラに長さ数mの小舟で近づくことの危険を自分で判断できず、こともあろうに縄をかけて引っ張ろうとした。そこでクジラが暴れないと判断することに人間の異常さを感じる。
ヒューマニズムが通用するのは人間の世界だけだということを、彼は知らなかったのだろうか。
Diary
週日に上半身の運動をしたからか、身体の切れはよく、2つ、納得できるプレイができたかな。
途中から体力尽きてしまうのはしょうがない。
サッカーは上半身だと知った日。

写真はテーピング、ケガしたわけではありません。
ついテレビでグループサウンズの番組をそこそこ見てしまった。そこでGSを聞こうと思わずに、なぜか、ベンチャーズにいってしまう、本日のBGM。
グループサウンズは「女の子がきゃあきゃあいってるし、はやっているからやってみた」という中学生のくせに受け狙いでやったバンドだったのだけれど、その前、生まれて初めてバンドで練習したのは、小学校の6年のとき、1966年、ベンチャーズだった。
クラスの仲間がいきなりエレキを買ってもらった。
そこで、いきなりクラスメイトでバンド、となったわけで。
最初のうち、僕はエレキが買えないので、スチール弦のクラシックギターのサウンドホールにぺらんぺらんの安物クリスタルマイクを突っ込み、アンプに通して、ブリッジに近いところで弾くことで、エレキみたいな音を出していた。
このバンドで川口のゴーゴー喫茶のバンドコンテストにGSの曲で出たのが人生ギターをもって最初のステージだった。(中学一年生)
このときのドキドキの大人の世界初体験の物語はそのうち。
学校の文化祭のステージに立ったのは、それよりあと。グループサウンズをやるようになって、文化祭に出ようとしていたら、学校で「エレキは禁止」されてしまい、急遽、別メンバーでフォーク3人組「ザ・トーイチ」というバンドを作った。
エレキが禁止になったのは、どうやら女の子のバックダンサーが5人くらいいたのがいけなかったらしい。学校でも派手目の女の子が一斉にそろって、カラダくねくねしてたので、先生は看過できなかったんでしょう。
次の年(中学3年)には、エレキも解禁になって(でも、バックダンサーは禁止)、GSバンドでも出演しました。そのとき、うちのバンドのリードギターは、寺内タケシの「運命」も弾いてたな。(笑)
中学では、学校中でギターを弾くのは10人くらいだったけど、高校に入ったら、クラスの男子の半分くらいギター弾けましたね。 中学でスターだったのが、ふつうの男の子になっちゃった感じ。(笑)
午後1時、テーピング、ストレッチなど開始。
徒歩でみなとみらいのスポーツパークへ。
午後2時、本年最初のフットサル開始。
ウォーミングアップ中にはあまり動ける自信はなかったが、思ったよりも走れる。
最初の一時間、いつもより余裕を持ってボールを持てる感じ。視野が広く取れているのだ。途中、そうでもなくなって、パスミスを連発のゲームも。
相手ディフェンスの戻りが遅くなっていたので、積極的に上がる。
左サイドからニアポストにもらったパスをシュートミス。
同じゲーム。今度は右サイドからゴールほぼ正面にもらったパスを、ダイレクトで会心のシュート。目の覚める(?)グラウンダーで左隅ぎりぎりに入った。久々の得点。
単純なもので、点を取るとかなりうれしい。
久しぶりにしっかり運動した。
将棋で言えば、「詰む」とわかった状態。
最初の内、600枚の小説の全体を自分の頭が一度に把握しきれなくて、漠然と、最後までにはすべてがつながるという「予感」だけがして、それで書き進んでいくのだけれど、ここまできて、やっと、残り部分のことを全部頭に置いておくことができて、未解決の伏線が、引き出しに収まるように全部つながって……、完成した状態が完全にイメージできる、そんなところまできました。
つまり、頭の中では完全にできあがった。
あとは頭の中の図面通りに書くだけ。
早ければ(バンバン手が動けば)、あと二日で完成するでしょう。
やっと心安らかになった~。
ここまで来ないうちは、「もしかしたらこの小説は完成しないんじゃないか」という思いがずっと胸の奥にある。
苦しいところから抜け出た感じ。
叔父の葬式、午前9時過ぎに家を出て午後8時帰宅の一日仕事。
叔父の棺には、予科練のころの集合写真があった。
叔父には戦争の話を聞かせてもらいたかったが、彼が予科練だったことで、僕の心の準備ができなかった。16歳かそこらで国のために命をかけようと思い立った人と向き合うには、こちらにもそれを受け止める覚悟が必要だと感じていた。
話を聞ける自分になろうとわざわざ江田島の海軍兵学校へ行ってみた。だが、そこでみたものは、自分の青春と当時との差であり、かえって道は遠のいてしまったのでした。
「おじさん、教えてくれ」と虚心坦懐に何も知らずに聞きに行けばよかったのかもしれない。
叔父が予科練にいたころは、日本にはもうたくさんの飛行機を作る国力も、飛行士を養成する時間もなくなっていた。叔父は飛行機ではなく、水上特攻艇「震洋」というので訓練していたらしい。人間魚雷回天が有名だけれど、僕が江田島で模型で見た震洋はベニヤ板でつくった、子供だましみたいなチンケな小舟だった。
あれでは軍艦の曳き波でも簡単に転覆してしまうだろう。
特攻のとき、突っ込むこともできずに波に煽られて転覆して死ぬ姿が想像できてしまう。それだけで泣けてくる。
乗ってみれば、彼らも訓練中に自分の最後をそのように想像したにちがいない。国のために死をいとわないという志を、きちんと受け止める国力すら日本にはなく、死に場所としてあまりにみじめなベニヤの船と、「特攻」にすら性能が不十分な船で、多くは「犬死に」が待っていたばかりだった。
棺の中の予科練当時の集合写真。
そのセピア色の集合写真を見て、このうち何人が生き残ったのだろうという思いが浮かび、6人の孫まで儲けたことを思えば、戦争で死なずに今年の正月二日まで生きていて本当によかったと思って涙が出た。
叔父が死んだことよりも、彼がその日まで生きたことを喜ぶ気持ちがした。
原稿は書けずに、疲れて就寝。
昨年11月の沖縄コザ訪問の時に収録、12月20日にFMコザで放送された 「エロかしまし小桜ナイト(ゲスト:小説家・阿川大樹) 」がポッドキャストで公開されましたので、以下のURLで聴取可能です。
パーソナリティの「コザクラおばあ」こと、まーこさんとのトーク番組。
http://log.ti-da.net/ad/user/ad.php?id=329 (mp3 34MB)
(残念ながら携帯からはお聞きになれません)
午前9時起床、徐々に朝型。
午前中、少し仕事。
昼過ぎからストレッチを始める。都合40分くらい。
1時過ぎ、自転車でみなとみらいスポーツパークへ。
フットサルコート3面を3時間借りて蹴り納めフットサル大会。
2002年ワールドカップのボランティアが全国各地から集まって合計27試合を行う。うちのチーム FC-JIVE はホストクラブ。
14時から17時まで滞りなく大会は終了。最後はかなり気温が低くて寒かった。僕も半分休み休み6試合に出場したが、かなりヘロヘロ。ケガがなくて良かった。
自転車で家まで飛んで帰り、さくさくっとシャワーを浴びて、納会の場所であるマリノスタウンのレストラン “ivi” へ。(場所は大会のあったグランドのすぐとなり)
いつもは居酒屋宴会なのだが、今回はぐっとお洒落に。(笑) となりの宴会にはセルジオ越後さんがいた。
9時に終了し、Bay Quater へ19人が流れて、”Bar de Cante” で二次会。
11時過ぎ、散会。歩いて帰宅。
定額制音楽配信サービス Napster がなかなかゴキゲンなので、つい物欲に駆られて対応プレイヤーの iriver T10 を買ってしまった。
512MBで十分なんだけどずっと品切れ。
1GBも品切れだったのが、急に直販サイトに出てきたので、衝動買い。きっと、品薄じゃなかったら買っていなかっただろうな。これぞ衝動買い。
最近、数千円から1万円くらいのプチ物欲が湧いている感じ。
使っている iPod Suffle よりもかなり音楽的な音がする。単三電池で53時間というのもうれしい。FMラジオもなかなか感度がよろしい。いい製品だと思う。
しかし、あまり外出しないので、よく考えるとこんなの必要ないジャン。(笑)
青島幸男が亡くなった。1932年生まれの青島幸男は、僕より22歳年上。
「おとなの漫画」「シャボン玉ホリデー」「スーダラ節」「ハイそれまでよ」「明日があるさ」「お昼のワイドショー」、彼が作品を産み出していた時代に僕の人格形成が行われたようなもので、全部同時代だ。
テレビのテレビらしさを作った人であり、サラリーマンを世間の主役にした時代の申し子でもある。
35歳で参議院に当選したところまで、それはテレビの力を信じた結果でもあった。
野坂昭如とならんで青島幸男は早稲田大学の校風を具現化したような人でもあり、少しだけ上の世代で早稲田大学を謳歌した僕の父親に芯にあるメンタリティにおいてそっくりで、青島を見ていると父親を見ているような気がしていた。
都知事になって彼がやったことも、反骨精神とサラリーマンの視点ではすでに経済も政治もやっていけないという現実離れにおいて、昔の早稲田そのものだった。これも企業に不適合で自分で事業を興して玉砕した父親を彷彿とさせる。
(そこへいくと、慶応の人は、実に現実をちゃんと見ている。福沢諭吉は偉いなあ)
権威に対する「アンチ」が真骨頂だった早稲田の青島がテレビを作った。
いつのまにか、テレビはテレビ自体が権威であり旧勢力になり、「小泉自民党圧勝」をまるで予想できなかったくらいに国民とは離れた存在になって、暴走を続けている。
多数が善良であるという前提のなかで「毒」や「本音」に意味があったのに、世間の毒が平気で表に出て、それを「本音」として肯定することが当たり前になると、暴走に歯止めがかからない。
アンチとして、やってはいけないことを「テレビの中だけで」やって視聴者が溜飲を下げていた時代が終わり、皮肉やイジメの番組が、テレビが権威になった時代には、「テレビでもやっているのだから」となんでも許されると錯覚され、テレビニュースで繰り返し報道される例外的な悪事が、「だれでもやっている」と視聴者に受け取られて、「社会の本当の姿は汚くてずるい人間が得をしている場所だ」とだけ翻訳されて疑われなくなってしまった。 テレビが少数例を取り上げ続けると、人々の心の中で、それが「ふつう」になってしまうのだ。
青島幸男さんには、政治をやらずにずっとテレビを動かしていて欲しかった。
早稲田精神で、ずっとテレビを権威にしないでおいて欲しかった。
僕にとって、青島幸男のマスターピースは、渥美清主演の「泣いてたまるか」のいくつかの作品だ。
青島幸男も岸田今日子も70代半ば。
平均寿命が80年あるからといって、自分が何歳で死ぬのかはわからないから標準的に生きた部類の寿命だろう。
特に長生きしたいわけではないけど、宇宙の真理がどうであろうと、自分のもっている時間は有限なのだなあ。などと当たり前のことを思った。
小説書こう。
