クジラを救うという発想

 クジラが港に迷い込み、それを外へ出そうとしていた人が亡くなった。
 クジラが狭いところに迷い込むのは、頻繁にあるわけではないけれど、クジラの習性の一部で、別に異常ではない。
 それを人間が外へ出す必要はないと思う。
 中にいられちゃ迷惑だというのが本音だ、というならわかるけれど、「救う」という発想が本当なら、それは人間の奢りだと思う。
 人間が見ているところでもそうでないところでも、野性の生物は産まれ、いろいろな理由で死んでいく。それが自然というもので、そこに人間が介入するのはおかしい。たまたま目に見えている自然を、人間が自分の思うとおりにしようとする。その発想が好きではありません。あえていうなら、それは自然破壊だと思う。
 クジラが死なない自然なんて、この地球にはない。
 なぜ、クジラの死を自然の一部として見ていられないのか。
 クジラは多くの小さな魚類の天敵だから、クジラが死ねば代わりにエサになる生物が救われる。クジラが死ぬのはかわいそうで、クジラが生き延びることでエサとして食べられるイワシはかわいそうではない、というのは、人間の勝手な感情であって、クジラを救うことは自然を救うことでもなんでもない。
 自然というのは、だれかが生きれば代わりにだれかが死んでいく、そういうものではないですか。
 亡くなった方はお気の毒だけれど、彼のやろうとしていたことに僕は賛成できない。やるべきでないことをして命を落としたから、よけいに痛ましい。
 それにしてもライフジャケットをしていなかったなんて、自然をなめている。自然は、胡散臭いヒューマニズムの場所ではなく、野性の場だ。海も、クジラも。体長15mのマッコウクジラに長さ数mの小舟で近づくことの危険を自分で判断できず、こともあろうに縄をかけて引っ張ろうとした。そこでクジラが暴れないと判断することに人間の異常さを感じる。
 ヒューマニズムが通用するのは人間の世界だけだということを、彼は知らなかったのだろうか。

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