新年度がはじまり、妻の仕事上のタイトルがワンランク上がった。
彼女のいる組織では、これより上位のタイトルになると、「おめでとう」ではなく「ご愁傷さま」になるので、いまの仕事を続ける限り、最後の昇進祝いをすることにした。
筍の鍋が冷めて次の鍋にかかるまでの時間、クィーンズスクエアのインド料理店で夕食。コース料理とスパークリングワイン。
パキスタン人やインド人もいて、なんだかシリコンバレーを思い出しながらの夕食になった。
インドへは行ったことがないけど、彼らの英語を聞いているとアメリカにいるみたいな気がしてくるのだ。
シリコンバレーの半導体産業にはインド人がとても多く、関連の学会へいくと、インド訛りの英語が「標準語」になっている。アメリカと日本を行き来していた頃、ひとりカリフォルニアでインディアン・レストランに入ったときにそっくり。
会話の内容から少し離れた席にいる二人のうち一人はどうやらパキスタン人で、たぶんもう一人はインド人。(パキスタン人もインド人も同じ訛りに聞こえる)
ふたりはいっしょに食事をしながら、さかんにそれぞれ携帯電話でだれかと話をする。
パキスタン人の方は電話の時はアラビヤ語で話し、インド人はよくわからない言語で話している。ふたりが電話でなく互いに話をするときは英語だ。インドとパキスタンは国としては仲が悪いが、どうやらふたりはビジネスの関係らしく、金儲けになれば国同士の関係など関係なくなるのは、日本人と中国人の場合と同じ。インド人も中国人もビジネスになると、したたかで、儲け話があれば、相手がどこの国の人間か、なんてことは気にしない。
(逆にいえば、互いに利害が一致するところで個別に関係を築くことができて、かつ、戦争になったりもしないのならば、別に隣国同士、ニコニコなかよしである必要もないわけだから、誰が靖国神社に行こうが行くまいが、それで相手が抗議してこようが、どうでもいい話のように思う。外交というのはいい条件を引き出すために「ここは譲りましょう、その代わり……」というのが必要なので、日頃から対立点がないと、譲り代がない。つまり、対立点はあった方が相手からこちらの国益に沿った条件を引き出しやすいのだ)
もちろん日本人もいたけれど、そんなわけで、インド料理を食べに行って、アメリカにいる気分になった夜でした。
起きる時間だったからそれはいいのだけど、ドアホンに出たとたんに切れた。
このマンションの設定は15秒。ストップウォッチで計ってみたのだが、我が家のもっとも遠い場所から居間の受話器まで14.5秒かかる。ベッドの中からは、さらに起きあがる時間だけ遠い。
ドアホンの受話器が廊下にあればまだマシなのだけれど、それは居間にある。ほとんどの時間、居間にはいない。いるのは仕事場か寝室だ。
引っ越してきて以来3回目。宅配便、書留などの約半数が「在宅なのに不在再配達」である。
管理会社にデータを示して改善の要求を出しているのだが、いまのところ改善される見通しは立っていない。
不在のときは、宅配ロッカーに入れられるはずなのだけれど、書留はそうならないし、ロッカーに入らないものもある。まだロッカーを経由して受け取ったものは皆無。すべて再配達だ。
しかたなく、階下の郵便受けに「不在配達票」をとりにいく。
三重県の知人から。
やっぱり。
これは一大事。この季節ならぜったい筍だ。
すぐにドライバーに電話。5分後に届いたのは、やはり筍。
筍とが来るというのは子どもが熱を出したようなものだ。有無を言わせず、他の予定をキャンセルして、茹でなくてはならない。
筍は掘ったとたんにえぐみが増え始める。しかも、箱いっぱい。我が家の鍋には最大でも3本しか入らない。最後のバッチが茹で上がるまでの時間をできるだけ短縮しなければならない。
というわけで、外出の予定をキャンセルして、いきなり筍大作戦。
いっしょに入っていた米ぬかをつかって、湯が沸いて茹で上がるまで1時間20分ほど。そこから自然に冷ますのに最低3時間ほど。午前11時前に受け取って、深夜0時をまわっても、まだ、最後の鍋が茹で上がらない。
我が家だけでは食べきれないので、別の階にいる知人に最初の2本をお裾分け。明日は、もう一軒にもお裾分けの予定。
(細かな心遣いで、ワカメと山椒とタラの芽も入っていた)
というわけで、スポーツクラブの入会申込みに行こうと思ったのに、また今日も行けなかった。(笑)
もちろん、3作目の原稿にも手をつけられない。(いいわけ)
朝、自分の山へ出かけて掘って送ってくれる筍。
毎年、桜の頃に送られてくるこいつ、すごく美味しいんだよね。高価なものではないけれど、これこそ贅沢の極み。
1979年の4月も1日は日曜日で、2日が月曜だった。
前の日まで、渋谷パルコ西武劇場プロデュースのテント(いまのパルコパート3の場所で当時はゴルフ練習場だったところに芝居小屋のテントをつくった)で「夢の遊眠社」の公演をし、千秋楽を終えて、次の日、2日からNECに入社してエンジニアになった。
というわけで、座付きミュージシャンだった僕の最期のステージが79年4月1日で、次に人前で演奏したのは2005年の12月6日のコザ「ジャックレモン」。実に26年ぶりだった。
4月2日月曜日に180度人生を変えて、それからNECに8年勤めて、アスキーに10年勤めて、「小説家志望のほぼ無職」を10年やって、やっと「小説家」になったのだ。
けっこうやりたいようにやって、やりたいように生きている気がする。幸せだなと、たまたま同じ曜日の4月2日に思った。
写真はみなとみらいの桜(4月1日撮影)