税金は安ければ安いほどいい、なんて僕は思わない。
本当の弱者は守ってあげなくてはいけない。が、声高に「生活が苦しくなる」と文句を言っているひとの大多数は「贅沢ができなくなる」だけのこと。ほとんどの人は弱者を守る側の人であって、救われるべき弱者じゃない。
ひとりあたり年間200万円くらいの収入で、健康であればそれで十分楽しく生きていける。(会社員を辞めて小説家になって身をもってそれを実証しているからよくわかる)
本当に貧しい人を守ってあげるためには、十分生きていける人からはもっと税金を取らなくてはならない。単純に計算すればわかることだ。弱者救済は必要で、それを実行するには多くの人が自分の暮らしをどこかで切り詰めて財源を確保する必要がある。
最近話題の暫定税率は一日に換算すると60億円。(20万円のマッサージチェアに換算して毎日3万個分)
税金の無駄遣いはおおいに気に入らないが、道路特定財源の無駄遣いを全部やめても、それを補うことはできない。無駄な道路建設はやめて欲しいが、それにしてもこの財源の多くの部分は新規の建設ではなく既存の道路などの保守費用だ。つまり、ガソリンの税金をなくしてしまったら、道路を荒れ放題にしておくか、教育か福祉か産業振興かなにかしらの費用を減らさなくてはならない。
つまり「税金を上げる前に無駄遣いをやめろ」は理屈に合わない。無駄なマッサージチェアだの天下り役人の高額な退職金など全部やめても、暫定税率を元に戻さなければ全然足りないのだ。
つまり無駄遣いを減らすのは当然としてもあくまでもそれとガソリン値上げは別問題なのだ。
無駄な橋や道路の建設をやめるにしても、そんなには節約できない。
結局「税金〈も〉上げて無駄遣い〈も〉やめろ」しかありえないのだ。
むしろ、税金上げてもいいからもっと教育や医療や福祉に金をかけて欲しいと僕は思う。
20年もののバイク GB250 Clubman を知り合いのメカニックにメンテナンスしてもらって再び乗り始めたのがちょうど1年前のことだ。
自賠責保険も満期を迎える。
幸いなことに4月から保険料が安くなった。
どちらにしても期限が切れる前に保険を更新しなければならない。で、コンビニで自賠責保険に加入できるとわかって、プールの帰りにセブンイレブンに寄った。
大きなコピー機に液晶タッチスクリーンがついている端末があり、そこで、ナンバープレートの内容、車体ナンバー、住所氏名などを入力すると、紙が出力されて出てくる。
それをもってレジで保険料を払うと、レジで、「保険のしおり」とナンバープレートに貼るシールをくれる。
さっきの端末にもどり、さきほどプリントアウトされた番号を入れると、保険証書がプリントアウトされて出てくる。
保険加入の方法としてこれ以上簡単な方法はないし、数分で、保険証書まで即日発効というスピード。
コンビニってすごいな。
資料として送ってもらったビデオを見始めた。
ビジネスの世界で日本とアメリカの差があまりにも大きく、その差は開いていくばかりだ。
さらに、日本は市場としての魅力も中国にかなわない。だからお客さんとしても、ゆっくりと、いや、ひょっとしたら急速に見捨てられつつある。
世界の企業から相手にされず、日本の企業は中国というフロンティアでも勝てない。
このままでは、五年後ですら日本はひどいことになってしまうだろう。
一番の問題は、日本国民がそういう危機にいるということをちゃんと認識していないということ。
これは相当なピンチだ。
勝たないで幸福になるシナリオもあり、それを選ぶのならそれはそれですばらしいと僕は思うけど、実際はそういうわけでもなく、ただ負け続ける国になっていくように思う。
目の前で起きていることを、なんで見ようとしないのだろう。
資源のない加工貿易の国、電子立国、勤勉な日本人、そんな「標語」や「モデルの捉え方」は全部、とっくに過去のものだ。
世界には資源も技術も労働力もある。
日本がそういう世界を利用していかなくてはならないのに、日本は日本の中でまずやろうとしている。その時点で、もうほとんど負けが決まってしまう。
スポーツの世界でもぱっとしないのは、やっぱり時代遅れなやり方しかしていないからだ。プロ野球はほんとに日本の縮図なのだな。
調べものをしていたら、また、暗澹たる気持ちになった。
少なくとも、それを認識している僕が、日本に何をできるだろう。
“Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.”, by John F Kennedy
JFKがこういったのは1961年のことだ。
「愛国心とは、国の為に戦争に行くことではなく、自分の手で国を造ろうと思うことである」(阿川大樹)(2008)
昨日、久しぶりにマラソンを始めから最後まで見ました。
高橋尚子さん、立派なアスリートであることはたしかだけれど、実際は2005年以来めぼしい成績を残していない。であるのにみんながどうしてそんなに期待するのかよくわからないのだけど、やっぱりダメでしたね。
彼女はプロなので、自分でダメだと思っていても、大丈夫な振りをして期待を引っ張るのが仕事です。そういう意味では、立派な仕事をしたと思います。
走り出してすぐにやっぱり北京はだめだと思っただろうけど、彼女の場合、走っていさえすれば映像には出るので、勝ち負けとは別にスポンサーの為にも走り続けるべきなので。
(実際、本人も完走したかったのだとは思いますけれども)
「マラソンのプロ」というのは、走って賞金をもらうというよりも、広告塔としての役割であるところが、野球やゴルフやテニスとずいぶんちがうところです。
昨年の負傷+手術というのは、別に彼女が特別不運なのではなくて、アスリートというのは、そうやって怪我と戦いながら生きていくのがふつうのことなので、なんかそれを賛美するような風潮はいやです。
マラソンを6時間かけて走る市民ランナーも、仕事が忙しいお父さんも、みんなそれぞれのレベルで「故障」と戦いながら同じようにがんばっている。高橋尚子さんのように光の当たる人だけががんばっているわけじゃない。 彼女と同じくらいがんばっている人は、ものすごくたくさんいる。
少なくとも何かに夢をもっている人は、ふつう、そういうふうに時分のためにがんばっている。高橋尚子が特別だとは僕は思いません。
彼女の場合、1998年から2002年まで、すばらしい成績を残していたということは、逆に肉体をぎりぎりまで酷使してきたわけなので、不運なのではなく当然の帰結として、故障することになって、それ以降は2005年に優勝はしたけれど、そこを最後にもうトップランカーとしては走れていませんでした。
すでに十分な成績を残したアスリートであることを評価するのは当然として、だからといって、結果がすべての世界でその後まで美化するのは、僕は好きじゃないです。アスリートを努力で評価するなら、彼女以上の人なんていくらだっている。
一方、スポーツタレントとしてみれば、実力がなくなってからも二年以上、(2002年から勘定すれば5年以上)これだけ商品価値を保っていたのは、プロとしてすばらしと思います。
アマチュアフットボールプレイヤーの僕は、右足首捻挫からゲーム復帰まで1年半かかりました。
腰の手術から6ヶ月経って、昨日は、仲間がゲームをしているところまで行って、フットサルコートの外で、一人で、走ったり、ドリブルの練習をしたり、ストレッチをしたりして別メニュー(笑)で調整していました。
全体に筋力がないので、機敏に動けないのと、足の筋力がまるで続かない。
ゴールに向かって何本かシュートを撃ってみたけど、全力では蹴れないし、体をひねって90度の方向に蹴るのはきつい。
アマチュアの特権なので、ゆっくりやろうと思います。
「あきらめなければ夢は叶う」
僕にとってはあまりにも当たり前のことで、ずっとそう思って生きてきているので、彼女を見ると、なんだかそういう説教臭さに反発してしまいます。
でも、彼女の言葉で実際に元気づけられる人がたくさんいるのは事実らしく、つまりそれは、「みんないろいろなことをあきらめて生きているんだな」ということであり、小説家としては、その「ままならぬ人生の切なさ」は大切に捉えたいと思います。
と同時に、あきらめてしまっている人の多くが、高橋尚子ほどの努力をしないであきらめている。
憧れていないで、自分が高橋尚子になれよ。
彼女の言葉や生き方に感動していないで、自分で努力して夢に向かって進めばいいのに、「Qちゃんから元気をもらった」なんていいながら、少しも努力をしない人がたくさんいるんだよね。
脱稿した歌舞伎町の小説は、野心(夢)を待つことで大きなものにつぶされる女性の物語です。
mixi のご乱心は、おそらく、世の中の流れであるSNSのAPIの公開の本流に乗るために必要な措置として狙ったものだろうと思っています。
クローズでああることで会員が増えたmixiは1000万人の規模になって会社として成長するにはクローズであることが足かせになっている。だから、外との接続性を確保したい。
コンテンツをちらりと外の人に見せたいわけですね。
しかし、これを打破してしまうのは自己否定であって、mixi の本質である非公開や限定公開とはもともと相容れないものです。
会社というのにはも寿命があってしかるべきで、いつまでも続くのがいいわけではないのだけれど、瞬間々々は明日どうしようであり、株主にどうこたえるのかという答も出さなければならない。
正解はたぶん、次の事業を別会社で興して、そちらに投資し、本業が衰退する前に、そちらが興隆したところで、古いビジネスはだれかにシナジーでより価値の出る相手に売り飛ばして現金化して、新しいビジネスにスイッチする、ということだと思います。
会社を売る、買収される、のは、成功の一種でよいことなのだけれど、日本ではそういう感覚はあんまりないので、従業員もえらい反発したりする。経営者まで反発したりして。
事業に寿命はあるのだから、会社がそれで衰退するのを流れに棹をさしても止められるものではなく、会社は古いものをじょうずに捨てながら新しい柱をどうにかしてつくらなくてはならない。
それをするのが経営者ですが、実態は「予想以上の市場の変化があったため」などと業績の悪化を、自分のせいではなく「世の中が悪いのよ」みたいにいうことが多いのですね。
たとえば、ソフトバンクはそうやって、いろいろ新しいことを取り入れている。個人的に好きではないけれど、孫正義さんは、経営者としては松下幸之助級の歴史に残るような経営者だと思います。
ほんの一例ですが、旧国策企業の NTT Docomo や KDDI を相手に、Softbank の携帯電話は十ヶ月連続純増数 No.1 ですからね。
日立東芝NECなどの古いエスタブリッシュメントは、自分のなかで多角化するのだけれど、これは効率が悪いし、競争力が弱い。
mixi のまま、会社を伸ばすのではなく、まったく別なことを始めるしかないんだよ、笠原さん。
と、まあ、そういうことなんじゃないかと思います。
mixi が会員とのあいだの契約である利用規程を改定しようとしているのが3月3日付けで告知されたのですが、4月1日からこんなことになるという、とんでもない内容を提示しています。
第18条 日記等の情報の使用許諾等
1)本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。
2)ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします。
つまり、これは
1)友人限定、あるいは、会員限定であることを前提に書いたものも含め、日記やコミュニティに書いた文章を、mixi が自由に外部に公表できる。
2)その際に、改変することもある。
3)発表しても対価は払わない。
4)発表の際、著者の氏名の表示もしないかもしれない。
5)発表の際、改変されたものに著者の氏名表示が為されるかもしれない。
ということです。
しかも、過去に書いたものにもこの規定は適用されるという。
私としては、著作を生業とするものとして、この条件は到底、許諾できないので、過去に書いたものも含め、大幅に削除するしかないですし、今後、書き込むものもこの条件を考えた書き込みにならざるを得ません。
そうでなくても、友人限定の日記を外に公開されたらたまったもんじゃない。
自分のプライバシーだけでなく、日記の登場人物のプライバシーも侵害されます。
それに怒った会員も多く、あっというまに数千人規模の反対運動が起きて、mixi もあわてて火消しにまわっていますが、新しく条文を提示しないと、この騒ぎはとうてい収まりそうにありません。
外部のメディアにもこのことは報じられています。
ただ、そこでの内容は「日記が勝手に出版されてしまう」というような観点で書かれたものが多く、それ自体は間違っていないにしても、本質的なことではありません。
出版するに値するものはそれほど多くはないので、影響の及ぶ範囲は限定的です。(阿川のような著作を生業としているものにとっては重大なことですが)
重要なことは、「限られた人にしか見せないつもりで書かれたもの」を、mixi が改変する権利をもったまま自由に公表する権利をもつような条文になっている。しかも、この規定が適用されるより前に書かれたものにまで、それが適用される。
mixi には、DVで夫から逃げてきている人のコミュニティもあれば、性的マイノリティの人たちのコミュニティもあります。非公開であるからこそ、安心して悩みを語り合ったり、情報交換をしたりできていたものが、突然、mixi 運営側に、自由に公表する権利がわたってしまうわけで、これは「勝手に出版」うんぬんではなく、ひとりひとりのプライバシーの問題です。
そんこともあって、退会する人が続々と出ていますし、閉鎖になったコミュニティもあります。
mixi は、投資格付けが下がって株価が下がったところに、追い打ちをかけるように失態を演じています。

沖縄市の女子中学生がアメリカ海兵隊員から暴行を受けるという事件が起きました。
米兵が中学生を誘った「サーティワンアイスクリーム」があるのが上の写真の「コザミュージックタウン」です。
事件が起きて、外出禁止(オフリミット)になり、嘉手納基地の門前町であるコザ(沖縄市)がガランとしている、という報道がなされ、アメリカ兵向けの店が並んでいる空港通りやかつてそういう店が密集していたセンター通り(旧BCストリート)の映像がテレビで流されます。
ところが、「米兵がいなくなってひっそりとしています」という映像は、いつもの風景とかわりがありません。あのあたりは、週末の夜以外はいつだってひっそりとしているんです。
毎日のように兵隊で賑わっていたのは、ベトナム戦争の頃まで。
日本中にあるシャッター通りと同じなのです。
それにしても、平日の、しかも昼間の、いつもながらの映像を撮って、「事件の影響で人通りが絶えた沖縄」だと報道するまるでインチキなテレビ。都合のよい映像に都合のよい説明をつけて流して、どこが報道なのでしょうね。
下の写真は、外出禁止でない、2004年と2007年のセンター通りとゲート通りです。



次世代DVDの規格として、HD-DVD と blu-ray が競争を繰り広げていました。
まだユーザーへの導入が始まったばかりですが、昨年末までで blu-ray が圧倒的なシェアを確保したと聞いていました。しかし、まだ、ほとんど買った人がいない、市場としては黎明期。
しかし、 HD-DVD を推進している東芝は撤退を決めたようです。
かねてより、ハードディスク録画、衛星や光ファイバーでニアーオンデマンド、の時代になるので、ブルーレイかHDDVDかは、基本的にどうでもよいこと、という主張をしてきたので、ブルーレイが勝ったということには何の感慨もないのですが、この件でいちばん感動したのは、この時期に早々と撤退を決めたということです。
一度始めた大プロジェクトを畳む決断がどれだけむずかしいか。
会社を経営したことのある人でないとなかなか直感的にはわからないだろうと思うのですが、自分の判断で何百億の損失を確定させ、工場の操業を停止させる、という決断はなかなかできるものではありません。
この時期の東芝のこの決断は日本の経営の歴史に残る大英断だと思います。
かなりスゴイです。
決断の背景には、勝ってこの市場の100%とってもその規模はたいしたことはなく、かつてのビテオテープのように各家庭に1台入るようにはならないであろうという予測もあったかもしれません。
現に、うちも買うつもりは全くない。
コンテンツを受け取る側では、多チャンネル化した放送とネット配信で十分ですし、家庭での保存もディスクに焼くよりも、ハードディスクにしまっておいたほうが便利だし、足らなければUSB接続などのハードディスクを増設したり差し替えた方が使い勝手がいい。(我が家のはまだそうではないけど、HDDレコーダーもその方向に変わってきています)
そもそもオンデマンドでいつでも見ることができるのなら、保存する必要すらないんですよね。
有料コンテンツなら、ライセンス情報だけ保持して、それを参照してそのつどダウンロードなりストリーム再生なりすればいい。保存が必要なのは、自分で製作したコンテンツくらいですが、それこそハードディスクでいい。
というわけで、もともと不毛なあまり意味のない競争だったと思います。
勝ってももうからない競争にお金をつぎ込むのは馬鹿げています。
そういう読みを含めて、早期に撤退を決めて損失を最小限に抑えた東芝経営陣の判断の素晴らしさに、敬意を表します。これはもう絶賛すべきです。

クリスマス・イブ。
昨日、ヨドバシで注文した wii + wii fit が本日午前9時過ぎに届いた。
注文から20時間しか経ってない。すごいな最先端の流通。
午後3時くらいから夫婦で3時間ほど遊んじゃった。
軽く汗ばむので、夕食の時まで暖房がいらなかった。
体動かさないと頭も働かない、というときがある。
特にバランスを取るという意外に体幹をしっかりつかう運動ばかりなので、僕のような暮らしには、かなりいいかもしれません。
最初、慣れないこともあってバランス年齢が「+13歳」で「げっ」と思ったけど、1時間ほど遊んでからもういちど測ったら「-14歳」と、一気に27歳若返った。ほんとかよ。(やる気を出させるためのおべんちゃらだろ)
どうやら、静止時のバランスはほとんど完璧。意図的にずらしていくのは、けっこう苦手、片足立ちは軸足の左はいいけど、右だと不安定。
重心の位置を中間位置で自分の思ったように思った精度で動かすのはなかなかむずかしいのだ。
すでに自分のアバターに愛着を感じ始めています。(笑)
しかし、デザインも大人向けにできていて、wii は、すごくいい商品だ。
ソニーの Play Station に於ける戦略の間違いが、ほんとに力任せでダサイものだったということがわかってしまう。任天堂はまったく新しいホームエンターテインメントをいいかたちで産み出した。
これは、かつてのウォークマンに匹敵する画期的な「発明」だと思う。
鉄腕アトムの頃に描いた、21世紀の姿は、Play Station 3 よりも wii が体現していると思う。「生活のなかの先端技術のありかた」という視点。
深夜から明け方にかけて、年賀状200枚の印刷。
他に妻が150枚出すので、我が家の年賀状は合計350枚。
妻と僕とは別人格なので、一人の方にそれぞれから年賀状が別に届くこともあります。(て、当たり前のことだと思うけど、意外にそういう受け取り方をした経験はないなあ)
我が家はクリスチャンでも商売人でもないので、クリスマスイブのイベントは特になし。
よく、「クリスチャンじゃないのに騒ぎすぎ」という人がいるけど、そもそもクリスチャンはクリスマスに騒がない。一方、宗教にかかわらず商売人ならあらゆる機会をうまく利用するのは当然だと思う。消費者としての自分はそれに乗るつもりはないけど、クリスマスは(宗教行事ではなくとも商売の機会として)騒ぐべきだ。
イスラムのイベントもヒンズーのイベントも、どんどん掘り起こしてやったらいいんじゃないかな。
2005年まで、横浜の黄金町の大岡川沿いには売春宿が並んでいた。
春を売るビジネスは行政により一掃され、小さな店舗が残った。
国際的な観光都市であり、お洒落な町として人気の高い横浜市としては、その歴史は汚点であるらしい。
もちろん法を犯していい筈がない。が、誰でも知っているその地域は2005年までたしかに売春宿であり、夜、そこを通れば小さな小さなそれぞれの店の前には、挑発的な服装をした外国人が、学園祭の芝居小屋のように、蛍光灯にピンクや青のセロファンを巻いた照明に照らされて立っていたのだ。
15分とか30分とか、わずかな時間にセックスを売るその場所は「ちょんの間」と呼ばれていた。
法律はなにも変わっていないが、2005年を境に、行政はそこを「再開発」することにしたのである。いまその歴史自体も消してしまいたい負の遺産であると行政は考えているらしい。
往時には月70万円はしたといわれるそのあたりの空いた店舗は、いまは家賃5万円で、まがりなりにも飲食店の設備が施されているから、若者がわずかな資金で店を開くことができる。
金はないけれど実現してみたいアイデアをもった若者が、「消し去りたい負の遺産」を「文化遺産」という「資産」だと考えた。
この町の町おこしをしてやろうじゃないかと考えた若者がいた。
そう、新宿ゴールデン街も、都橋商店街も、ほとんど同じ空気をもっている。あるいは新橋のガード下だってそうだ。僕はゴールデン街で飲んでいる億万長者を何人も知っている。何十億円の買い物をした人が、同じ夜、1500円の飲み代を奢られている場面だって目撃したことがある。
もちろん、いかがわしい悪の巣窟などではないし、ただの貧乏人の巣窟でもない。
猥雑な空気こそが資産であるというのは、そこに集まる人たちが多くいることが証明している。それを積極的に必要としている人間が少なからずいるということなのだ。
画一的なクリーンさを求め、過去の歴史をできれば封印してしまいたいと考えた行政と、その町を面白いと思った若者たちは、どうやら、どこか相容れないところがあったようだ。
夜の9時、僕はそんな若者たちに初めて巡り会い、午前3時まで語り合った。
ものすごく楽しかった。
彼らのやろうとしていることは正しい。
どうしたら、あの町を本当の意味で守っていくことができるのか、僕の頭は回り出している。
以下、彼らの好意により、ちょんの間の中を撮影させてもらった
建物はものすごくきれいだ。
同じように以前は青線だったゴールデン街は売春防止法(1956年)施行から立て替えられていない木造建築であるため、かなり老朽化している。だが、黄金町は2005年まで現役の売春宿であり、現代の衛生観念にそってリニューアルされている。
飲食店であるはずなのに、トイレにシャワー設備があるのが、「そのため」の店であったことを物語る。
店の裏口も道路に面している。万一の時も逃げ出すことができる構造だ。
今は月5万円の家賃も、かつてはこの狭さで70万円。つまり、それだけの「上がり」があったということだ。
物件によっては、ひとつの店の、土地と上屋、さらにはカウンターと二つの部屋が、それぞれの別の所有者になっているという。さらには日本にいない外国人の所有になっていることもあるという。
このような権利関係の複雑さは、女一人と部屋ひとつが、それぞれにビジネスユニットであったことの名残であり、またそれがこの地区の再開発をむずかしくしている。

短いスカートの女が客を伴って昇ったであろう狭くて急な階段

壁から壁まで人が横になるぎりぎりサイズのベッドで占められている部屋。
もはや売春宿ではないので横になっている男性は「客」ではない。(念のため)

小さな窓の外は大岡川。春にはサクラが咲き誇る名所だ。
昼間の外のようすは、こちらの関連エントリーで。
