映画「すべては海になる」

 夕方、テアトル京橋試写室へ。
 山田あかね原作・脚本・監督「すべては海になる」。
 この映画、冒頭シーンでいきなり阿川大樹が登場する。手には「フェイク・ゲーム」を持っている。劇場映画、初出演です。(笑)
 撮影は真夏の夜中、冷房の止まった暑い書店だったけど、冬の服装をして普通に冬に撮れていた。当たり前だけど。
 まあ、ここは、監督のお遊びの一部。ヒッチコック映画で自分が登場するみたいな。
 それはともかく、この映画、いい映画でした。
 大作ではないけど、いい映画。
 もしかしたら見る人を選ぶかもしれないけれど、きちんと作られた上質な時間をくれる作品。
 本当は重い題材なのに、映画自体は十分に明るく作られているのも、手腕を感じる。(手腕を感じるなんて、偉そうな言い方で恐縮してしまうけど、だけど、強調しておきたいから)
 いかにも立派そうに重く作るのなら、ずっと易しいかもしれない。その方が「大作」に見えたり、あるカテゴリーの観客は「感動」したような気がするかもしれないけど、そうはしていない。
 佐藤江梨子をこういう存在感で使うなんて、しろうとの僕には想像もできなかった。(これもレベルの低い褒め方で書くのも恥ずかしいけど)
 とにかく、いつでも女優を「美しく」とか「可愛いく」とか、そういう薄っぺらな使い方ではない。
 書店員の彼女は、たいていの時間、なんだか疲れていて、生きているのはたいへんだなあ、というふうに見えている。
 そして、要所要所で、そんじょそこらの人が到底もっていない神々しさを帯びる。世界が彼女の存在を失ってはいけないと思う瞬間が短い時間だけど、しっかり、狙われて作られているように思う。
 それが、スクリーンいっぱいに映ればシワまで見えてしまう、映画の中の女優の使い方なのだ、と気づかされる。
 問題は、たぶん、「この映画の良さを短い文字で表現する」のがとても困難な映画だということかもしれない。
 見ないとわからないいい映画。
 もしかしたら公式サイトやパンフレットでは伝えきれない。
 それは興行的には困ったことかもしれないけれど、つまり、映画の1時間59分をもってして、初めて表現できるものを持っている映画だってことだ。
 エキストラとして、台詞もない役をこなしただけだったけれど、おしまいのタイトルロールに、阿川大樹の名前がクレジットされていた。
 
「撮影の時に栄養ドリンクを差し入れした」という以上に、僕がこの映画に貢献しているものはない。むしろ、僕が映画の現場を勉強させてもらった上にロケ弁をご馳走になった、といった感じ。
 けれど、いい映画に名前が刻まれていると思うと、無条件にうれしい。
 京橋の試写室を出てから、いい気分で銀座を歩いて新橋まで。
 途中、山田監督に電話して「よかった」と伝えようと何度も思ったけど、意外にシャイな僕は、それができずに新橋の立ち飲み屋でちょっと空腹を満たして、帰宅。
 長編、追い込みモード中で、テンションが抜けたらどうしようという不安があったけれど、作品を作る人の執念というか熱意というかが感じられて、むしろエネルギーをもらえた。
 そのお陰で、帰ってから年末進行の連載エッセイも、さらりと1時間、 pomera で書けてしまった。
 1月23日から全国で公開です。
 映画「すべては海になる」公式サイトは こちら です。