Diary

常磐とよ子+荻野アンナ

R0013288.jpg
GR Digital
 シネマ・ジャック&ベティで開催されたトークショー「荻野アンナが聴く 横浜の女性ライブトーク 常磐とよ子が撮った昭和という時代」を聴きにいく。
 いつもなら156系統滝頭行きのバスに乗って黄金町で降りるところだけれど、このバス、祝日は運行されていない。かわりに「みなとみらい100円バス」が日ノ出町駅まで運行されているので、それで。
 安くすむかわりに少し歩く。
 常磐とよ子さんは、女性写真家の草分け。僕が生まれた1954年に24歳で写真を撮り始めた人。
 午後4時に終わり、伊勢佐木町を歩いていたら吉野家を発見! 今年初めて吉野家の牛丼を食べる。(380円)
 日ノ出町駅まで歩いて、100円で帰宅。
(雨じゃなければ歩いて帰ってもいいところだけれど)
 0時をまわってからは、仕事の参考資料として映画を2本。
「ザ・エージェント」「ラストゲーム」(どちらも邦題、原題は似ても似つかない)。
 前者は駄作。後者(スパイク・リー監督)はいい作品だと思った。

日本の凋落

 資料として送ってもらったビデオを見始めた。
 ビジネスの世界で日本とアメリカの差があまりにも大きく、その差は開いていくばかりだ。
 さらに、日本は市場としての魅力も中国にかなわない。だからお客さんとしても、ゆっくりと、いや、ひょっとしたら急速に見捨てられつつある。
 世界の企業から相手にされず、日本の企業は中国というフロンティアでも勝てない。
 このままでは、五年後ですら日本はひどいことになってしまうだろう。
 一番の問題は、日本国民がそういう危機にいるということをちゃんと認識していないということ。
 これは相当なピンチだ。
 勝たないで幸福になるシナリオもあり、それを選ぶのならそれはそれですばらしいと僕は思うけど、実際はそういうわけでもなく、ただ負け続ける国になっていくように思う。
 目の前で起きていることを、なんで見ようとしないのだろう。
 資源のない加工貿易の国、電子立国、勤勉な日本人、そんな「標語」や「モデルの捉え方」は全部、とっくに過去のものだ。
 世界には資源も技術も労働力もある。
 日本がそういう世界を利用していかなくてはならないのに、日本は日本の中でまずやろうとしている。その時点で、もうほとんど負けが決まってしまう。
 スポーツの世界でもぱっとしないのは、やっぱり時代遅れなやり方しかしていないからだ。プロ野球はほんとに日本の縮図なのだな。
 調べものをしていたら、また、暗澹たる気持ちになった。
 少なくとも、それを認識している僕が、日本に何をできるだろう。
“Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.”, by John F Kennedy
 JFKがこういったのは1961年のことだ。
「愛国心とは、国の為に戦争に行くことではなく、自分の手で国を造ろうと思うことである」(阿川大樹)(2008)

高橋尚子というプロフェッショナル

 昨日、久しぶりにマラソンを始めから最後まで見ました。
 高橋尚子さん、立派なアスリートであることはたしかだけれど、実際は2005年以来めぼしい成績を残していない。であるのにみんながどうしてそんなに期待するのかよくわからないのだけど、やっぱりダメでしたね。
 彼女はプロなので、自分でダメだと思っていても、大丈夫な振りをして期待を引っ張るのが仕事です。そういう意味では、立派な仕事をしたと思います。
 走り出してすぐにやっぱり北京はだめだと思っただろうけど、彼女の場合、走っていさえすれば映像には出るので、勝ち負けとは別にスポンサーの為にも走り続けるべきなので。
(実際、本人も完走したかったのだとは思いますけれども)
「マラソンのプロ」というのは、走って賞金をもらうというよりも、広告塔としての役割であるところが、野球やゴルフやテニスとずいぶんちがうところです。
 昨年の負傷+手術というのは、別に彼女が特別不運なのではなくて、アスリートというのは、そうやって怪我と戦いながら生きていくのがふつうのことなので、なんかそれを賛美するような風潮はいやです。
 マラソンを6時間かけて走る市民ランナーも、仕事が忙しいお父さんも、みんなそれぞれのレベルで「故障」と戦いながら同じようにがんばっている。高橋尚子さんのように光の当たる人だけががんばっているわけじゃない。 彼女と同じくらいがんばっている人は、ものすごくたくさんいる。
 少なくとも何かに夢をもっている人は、ふつう、そういうふうに時分のためにがんばっている。高橋尚子が特別だとは僕は思いません。
 彼女の場合、1998年から2002年まで、すばらしい成績を残していたということは、逆に肉体をぎりぎりまで酷使してきたわけなので、不運なのではなく当然の帰結として、故障することになって、それ以降は2005年に優勝はしたけれど、そこを最後にもうトップランカーとしては走れていませんでした。
 すでに十分な成績を残したアスリートであることを評価するのは当然として、だからといって、結果がすべての世界でその後まで美化するのは、僕は好きじゃないです。アスリートを努力で評価するなら、彼女以上の人なんていくらだっている。
 一方、スポーツタレントとしてみれば、実力がなくなってからも二年以上、(2002年から勘定すれば5年以上)これだけ商品価値を保っていたのは、プロとしてすばらしと思います。
 アマチュアフットボールプレイヤーの僕は、右足首捻挫からゲーム復帰まで1年半かかりました。
 腰の手術から6ヶ月経って、昨日は、仲間がゲームをしているところまで行って、フットサルコートの外で、一人で、走ったり、ドリブルの練習をしたり、ストレッチをしたりして別メニュー(笑)で調整していました。
 全体に筋力がないので、機敏に動けないのと、足の筋力がまるで続かない。
 ゴールに向かって何本かシュートを撃ってみたけど、全力では蹴れないし、体をひねって90度の方向に蹴るのはきつい。
 アマチュアの特権なので、ゆっくりやろうと思います。
「あきらめなければ夢は叶う」
 僕にとってはあまりにも当たり前のことで、ずっとそう思って生きてきているので、彼女を見ると、なんだかそういう説教臭さに反発してしまいます。
 でも、彼女の言葉で実際に元気づけられる人がたくさんいるのは事実らしく、つまりそれは、「みんないろいろなことをあきらめて生きているんだな」ということであり、小説家としては、その「ままならぬ人生の切なさ」は大切に捉えたいと思います。
 と同時に、あきらめてしまっている人の多くが、高橋尚子ほどの努力をしないであきらめている。
 憧れていないで、自分が高橋尚子になれよ。
 彼女の言葉や生き方に感動していないで、自分で努力して夢に向かって進めばいいのに、「Qちゃんから元気をもらった」なんていいながら、少しも努力をしない人がたくさんいるんだよね。
 脱稿した歌舞伎町の小説は、野心(夢)を待つことで大きなものにつぶされる女性の物語です。

ビジネスモデルの栄枯盛衰

 mixi のご乱心は、おそらく、世の中の流れであるSNSのAPIの公開の本流に乗るために必要な措置として狙ったものだろうと思っています。
 クローズでああることで会員が増えたmixiは1000万人の規模になって会社として成長するにはクローズであることが足かせになっている。だから、外との接続性を確保したい。
 コンテンツをちらりと外の人に見せたいわけですね。
 
 しかし、これを打破してしまうのは自己否定であって、mixi の本質である非公開や限定公開とはもともと相容れないものです。
 会社というのにはも寿命があってしかるべきで、いつまでも続くのがいいわけではないのだけれど、瞬間々々は明日どうしようであり、株主にどうこたえるのかという答も出さなければならない。
 正解はたぶん、次の事業を別会社で興して、そちらに投資し、本業が衰退する前に、そちらが興隆したところで、古いビジネスはだれかにシナジーでより価値の出る相手に売り飛ばして現金化して、新しいビジネスにスイッチする、ということだと思います。
 会社を売る、買収される、のは、成功の一種でよいことなのだけれど、日本ではそういう感覚はあんまりないので、従業員もえらい反発したりする。経営者まで反発したりして。
 事業に寿命はあるのだから、会社がそれで衰退するのを流れに棹をさしても止められるものではなく、会社は古いものをじょうずに捨てながら新しい柱をどうにかしてつくらなくてはならない。
 それをするのが経営者ですが、実態は「予想以上の市場の変化があったため」などと業績の悪化を、自分のせいではなく「世の中が悪いのよ」みたいにいうことが多いのですね。
 たとえば、ソフトバンクはそうやって、いろいろ新しいことを取り入れている。個人的に好きではないけれど、孫正義さんは、経営者としては松下幸之助級の歴史に残るような経営者だと思います。
 ほんの一例ですが、旧国策企業の NTT Docomo や KDDI を相手に、Softbank の携帯電話は十ヶ月連続純増数 No.1 ですからね。
 日立東芝NECなどの古いエスタブリッシュメントは、自分のなかで多角化するのだけれど、これは効率が悪いし、競争力が弱い。
 mixi のまま、会社を伸ばすのではなく、まったく別なことを始めるしかないんだよ、笠原さん。
 と、まあ、そういうことなんじゃないかと思います。

mixi規約改定

 mixi が会員とのあいだの契約である利用規程を改定しようとしているのが3月3日付けで告知されたのですが、4月1日からこんなことになるという、とんでもない内容を提示しています。

第18条 日記等の情報の使用許諾等
1)本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。
2)ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします。

つまり、これは
1)友人限定、あるいは、会員限定であることを前提に書いたものも含め、日記やコミュニティに書いた文章を、mixi が自由に外部に公表できる。
2)その際に、改変することもある。
3)発表しても対価は払わない。
4)発表の際、著者の氏名の表示もしないかもしれない。
5)発表の際、改変されたものに著者の氏名表示が為されるかもしれない。
ということです。
 しかも、過去に書いたものにもこの規定は適用されるという。
 私としては、著作を生業とするものとして、この条件は到底、許諾できないので、過去に書いたものも含め、大幅に削除するしかないですし、今後、書き込むものもこの条件を考えた書き込みにならざるを得ません。
 そうでなくても、友人限定の日記を外に公開されたらたまったもんじゃない。
 自分のプライバシーだけでなく、日記の登場人物のプライバシーも侵害されます。
 それに怒った会員も多く、あっというまに数千人規模の反対運動が起きて、mixi もあわてて火消しにまわっていますが、新しく条文を提示しないと、この騒ぎはとうてい収まりそうにありません。
 外部のメディアにもこのことは報じられています。
 ただ、そこでの内容は「日記が勝手に出版されてしまう」というような観点で書かれたものが多く、それ自体は間違っていないにしても、本質的なことではありません。
 出版するに値するものはそれほど多くはないので、影響の及ぶ範囲は限定的です。(阿川のような著作を生業としているものにとっては重大なことですが)
 重要なことは、「限られた人にしか見せないつもりで書かれたもの」を、mixi が改変する権利をもったまま自由に公表する権利をもつような条文になっている。しかも、この規定が適用されるより前に書かれたものにまで、それが適用される。
 mixi には、DVで夫から逃げてきている人のコミュニティもあれば、性的マイノリティの人たちのコミュニティもあります。非公開であるからこそ、安心して悩みを語り合ったり、情報交換をしたりできていたものが、突然、mixi 運営側に、自由に公表する権利がわたってしまうわけで、これは「勝手に出版」うんぬんではなく、ひとりひとりのプライバシーの問題です。
 そんこともあって、退会する人が続々と出ていますし、閉鎖になったコミュニティもあります。
 mixi は、投資格付けが下がって株価が下がったところに、追い打ちをかけるように失態を演じています。

ギターの話

 昨日、打合せが終わって、久しぶりの神保町。
 まずは、朝食(午後五時半だぜ)に立食ソバ。ど~んと「かき揚げ天ぷらそば」三百三十円。安い! 味もよろしい! 神保町恐るべし。
 あとは、本屋の匂いを嗅ぎつつ、駿河台下からお茶の水にかけて楽器屋めぐり。この界隈は楽器屋と本屋がたくさんあって、僕にとってはディズニーランドのような場所。
 以前は、この手の楽器屋におっさんが入ると場違いな感じで、店員の視線も冷たかったのが、最近ではすっかり様変わりで、おっさんたちが若い頃に買えなかった高額な楽器をばんばん買うので、店員の目がきらりと輝くのがわかる。
「ギブソンでしたら二階三階にもありますので」
 二階には新品のギブソン、三階には中古のギブソンがあるのだ。高い楽器のフロアに客を誘導しようとする店員。
 二階へ上がると、案の定、Gibson ES-335 (いろいろあるけど三十万円くらい)を弾いている白髪交じりの会社員風の男性がいた。
 演奏の腕前は僕の方がじょうずでした。(笑)
 ちなみに、ギターはメンテナンス状態がよければ時間が経つほどいい音になるので、ギブソンの場合、中古の方が高い。
 
 僕が十八歳の時に買った八万円のギターは三十五年経っていまはすばらしい音になっている。たぶん新品の二十万円のギターに劣らない。
 その他、オークションでいくつかギターを買っているけど、選ぶ基準は「古くてキズの多いもの」。
 オークション価格五万円以下のギターはふつう若い人が買うので、「新品同様」とか「美品」というのに高い値がつく。つまり新品は買えないけど、できるだけ新品に近い中古が欲しいわけ。
 ところがこちらはできるだけ安くていい音が出るギターが欲しいので、傷だらけで古いほど可能性を秘めていると判断する。同じ年数でも弾き込まれた楽器の方がよく鳴るようになっているので、たくさん弾かれてキズが多いものはいい音がする可能性が高い。(あくまで可能性)
 僕が買うのは「高くはないがしっかりした楽器」で定価で六万円から十五万円のものだけれど、およそも二,三万円台で買って、新品よりはいい音になっているもの。三十年以上前の定価二万円のクラシックギターをヨット用に九千五百円で買ったものは、音としてはいまの新品なら三万から五万円くらいに相当すると思う。
 この日の楽器屋でも、製造は三十年ほど前と思われる一見キズだらけのボロボロのギブソンが三十八万円で売られていた。新品よりむしろ高い。
 ちなみに昨日届いたギターは一九九九年のものでまだ新しすぎる。

沖縄と米軍

R0012899.jpg
 沖縄市の女子中学生がアメリカ海兵隊員から暴行を受けるという事件が起きました。
 米兵が中学生を誘った「サーティワンアイスクリーム」があるのが上の写真の「コザミュージックタウン」です。
 事件が起きて、外出禁止(オフリミット)になり、嘉手納基地の門前町であるコザ(沖縄市)がガランとしている、という報道がなされ、アメリカ兵向けの店が並んでいる空港通りやかつてそういう店が密集していたセンター通り(旧BCストリート)の映像がテレビで流されます。
 ところが、「米兵がいなくなってひっそりとしています」という映像は、いつもの風景とかわりがありません。あのあたりは、週末の夜以外はいつだってひっそりとしているんです。
 毎日のように兵隊で賑わっていたのは、ベトナム戦争の頃まで。
 日本中にあるシャッター通りと同じなのです。
 それにしても、平日の、しかも昼間の、いつもながらの映像を撮って、「事件の影響で人通りが絶えた沖縄」だと報道するまるでインチキなテレビ。都合のよい映像に都合のよい説明をつけて流して、どこが報道なのでしょうね。
 下の写真は、外出禁止でない、2004年と2007年のセンター通りとゲート通りです。
IMG_0559.jpg
R0012910.jpg
R0012905.jpg

東芝経営陣を讃える

 次世代DVDの規格として、HD-DVD と blu-ray が競争を繰り広げていました。
 まだユーザーへの導入が始まったばかりですが、昨年末までで blu-ray が圧倒的なシェアを確保したと聞いていました。しかし、まだ、ほとんど買った人がいない、市場としては黎明期。
 しかし、 HD-DVD を推進している東芝は撤退を決めたようです。
 かねてより、ハードディスク録画、衛星や光ファイバーでニアーオンデマンド、の時代になるので、ブルーレイかHDDVDかは、基本的にどうでもよいこと、という主張をしてきたので、ブルーレイが勝ったということには何の感慨もないのですが、この件でいちばん感動したのは、この時期に早々と撤退を決めたということです。
 一度始めた大プロジェクトを畳む決断がどれだけむずかしいか。
 会社を経営したことのある人でないとなかなか直感的にはわからないだろうと思うのですが、自分の判断で何百億の損失を確定させ、工場の操業を停止させる、という決断はなかなかできるものではありません。
 この時期の東芝のこの決断は日本の経営の歴史に残る大英断だと思います。
 かなりスゴイです。
 決断の背景には、勝ってこの市場の100%とってもその規模はたいしたことはなく、かつてのビテオテープのように各家庭に1台入るようにはならないであろうという予測もあったかもしれません。
 現に、うちも買うつもりは全くない。
 コンテンツを受け取る側では、多チャンネル化した放送とネット配信で十分ですし、家庭での保存もディスクに焼くよりも、ハードディスクにしまっておいたほうが便利だし、足らなければUSB接続などのハードディスクを増設したり差し替えた方が使い勝手がいい。(我が家のはまだそうではないけど、HDDレコーダーもその方向に変わってきています)
 そもそもオンデマンドでいつでも見ることができるのなら、保存する必要すらないんですよね。
 有料コンテンツなら、ライセンス情報だけ保持して、それを参照してそのつどダウンロードなりストリーム再生なりすればいい。保存が必要なのは、自分で製作したコンテンツくらいですが、それこそハードディスクでいい。
 というわけで、もともと不毛なあまり意味のない競争だったと思います。
 勝ってももうからない競争にお金をつぎ込むのは馬鹿げています。
 
 そういう読みを含めて、早期に撤退を決めて損失を最小限に抑えた東芝経営陣の判断の素晴らしさに、敬意を表します。これはもう絶賛すべきです。

歌について、言葉について

 昼間のうちは映画化関係のメールのやりとり。
 夜になって本気モードの執筆開始。
 すっかり川上未映子に影響を受けてしまってます。
 自分が執筆モードなので、彼女の小説はまだ読んでないけど、音楽の方で。
 そういう意味では川上未映子ではなくミュージシャン名義だから「未映子」の影響というべきか。
(さらにいえば「未映子」を名乗る前の「川上三枝子」名義のアルバムも、純正ロックでとってもいい)
 言葉自身のもつ力というか魂みたいなものについて考え込む。
 未映子の歌が滲みる。彼女の歌い方も言葉を音としてではなく言葉として(へんな表現だけど)送り出そうという歌い方なんだな。
 こういう風に、言葉に入り込んでしまうのは、エンターテインメント作家としてはたいへんよろしくないわけです。純文学へいってしまっては、僕の目指しているキャリアはまたリセットになってしまう。53歳でやっとここまできて、いまさらリセットしている人生の残りはないからね。
 なので、かなり困ったな、と思ったんだけど、ふと気づいた。
 そう、言葉を大切にするなら、歌の方でやればいいじゃないか、と。
 そんなわけで、猛烈に歌をつくって唄いたくなっている。
 いまの長編が書き上がったら、一曲、書こうと思う。
 ん? 確定申告? それもあるんだよな。まったく。 浮き世はままならぬ。

ミュージシャンとしての川上未映子

 昨日、スターバックスでインタビューを読んだ川上未映子。
 芥川賞受賞作の冒頭部分も少し読んで、改めてじっくり読もうとそこまでにしておいたのだった。
 本人、文筆歌手を名乗っている。
 で、今日は彼女の歌を聴いている。
 まず、楽器としての声の質がいい。
 さらに曲全体にわたってニュアンスの作り込み方にセンスがある。
 その上、それを伝える表現力がある。
 宇多田ヒカル以来の感動! この人はスゴイ。
 小説と音楽。
 僕のやりたいものの才能を高いレベルで持っている。
 いいなあ、素直に、この才能に嫉妬します。
 僕はだいたいオレ様な人間なので、あまり人を崇拝したり心酔したり権威を頼りに選んだりしない人だと思うけど、この人はスゴイ。