
冬の間のスタジオの乾燥がひどくて、タカミネのエレガットが割れてしまった。(NPT-110Nというモデル)
5月に短期連載の仕事が入ったので、代わりのギターを買うことができた。
問題は残された壊れたギター。
壊れたものとはいえ、楽器を捨てるのは心が痛む。
アーチストの会議で、こういうものがあるから作品の素材にするなら無料で提供する、といったら「野田智之さんが使うんじゃないか」ということになって供出した。
現在開催されている「黄金町バザール2011」で、そのギターが作品になって展示されている。
場所は高架下新スタジオSiteAギャラリー。
つい最近、もう一台、タカミネのエレアコを手放した。(PT-106というモデル)
こちらはサッカー仲間の中学2年の息子さんに4000円で譲った。
オークションに出したら2万円くらいになる可能性もあったみたいだけど、小さいときから知っている彼がそういう年頃になったのがうれしくて、金額はどうでもよいのだ。
50歳を過ぎると、自分の小さな損得よりも次世代の為になる方がうれしかったりして。
福岡で福島を支援するためのショップをやろうとしたら、放射能に汚染された車が来るから止めてくれというクレームが来て中止になったという。
こういうことを言う人は少数なのだけど、「事なかれ主義」「全会一致主義」の日本では、声の大きな少数派の意見が通ってしまう。
京都の送り火もそうだけど、こういうことに文句を言う人って、そもそも利害関係のある地元の人なのかどうかだって怪しいものだ。
どちらかといえば愉快犯。テロリストの一種だ。
子供の健康を守るとか、差別をなくすとか、傷つく人がいるとか、一見反対しにくい理屈をつけて文句を言って楽しむクレーマーたち。
福島から物資を運んでくるトラックが何台か余計に来たところで、それで汚染が拡がるはずはない。
うちの車だって、先日福島原発20kmのことろまで行き、線量の高い山の中の高台を草を踏み分けて走って戻ってきた。
福島を走った車などどこにでもふつうに走っている。
支援ショップを中止にしてもその台数にたいした違いが出るわけでもない。
放射性物質を気にするにしても、そもそも中止する効果がほとんどない。
(運送業者に頼めば福岡に届くときのトラックは福島を走っていないはずだしね)
一人でも反対する人がいたら新しいことを何もできない社会。
そんな社会だからこそ、日本の弱体化が進んでいるんだよね。
部長から黄金町けいおん部の課題曲リストが送られてきた。
Like A Virgin
I’m Waiting For The Man
99 Luftballons
近いうちにドラムの個人練習に行かなくては。執筆の気分転換にドラムを叩くのは良いのではないかと期待。

昨日、月曜休みの飲食店が多くて苦労したので、年中無休という「皇膳門」をチェック。
定食がランチが500円から、夕食は680円から。
夕食に黒酢酢豚定食680円。リーズナブルでした。
年金定期便に返事を出していなかったのを今更ながら記入して投函。
執筆が佳境になってきたので、「猛獣注意」の掲示をした。
本日発売の以下のメディアに阿川大樹が登場しています。
■「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー) 2011年10月号
阿川大樹のインタビューが掲載されました。
■小学館 StoryBox 25 連載小説「インバウンド」 第2回
■オンラインマガジン「Sohzine vol.4」 エッセイ「作家の日常」 第4回
月曜日で、(最近にしては)少し静かな黄金町。
日本画家の阿部道子さんがスタジオまで来て雑談していたところに、昨日からうちのマンションのゲストルームに泊まっていた、ヨット・テーザー級全日本チャンピオンの河野恭子さんと妻が到着。
河野さんとは古くからのヨット仲間で、9月16日からイギリス・トーベイで開催される世界選手権出場の前に、黄金町バザールを見に来てくれた。
というわけで、スタジオで黄金町の歴史の話などしてから、バザールのパスポート(入場券+ガイドブック+スタンプ帳)をもってご案内。
黄金町バザールが始まって一ヶ月が経っているけど、僕自身、ほとんど展示を見ていないのでちょうどいい。
さてランチを、ということになったのだけど、近隣の美味しい店が月曜日でことごとく定休日。
しかたなく幸福飯店というところに初めて入ったのだけど、これが大ハズレ。
焦げ付いて皮の破けた餃子を出す店なんていまどきありえん。
黄金竜宮へ行くという二人と途中で別れて、そこから先は執筆モードに戻る。
こちらは世界選手権じゃないけど、これから16日にかけて執筆もかなり本気モードにならなくてはならないので、いよいよスタジオのガラス戸に「近寄るなキケン 猛獣注意」の掲示を出す。
夕食は「鹿島家」でラーメン(600円)。
午前零時過ぎまで仕事をして、帰宅後、なでしこジャパンのオーストラリア戦を見たら、あっという間に午前3時を過ぎていた。
運動不足なので、午前中は Baybike でポタリング。
自分の自転車はロードスポーツなので、ゆっくり漕いだのでは軽すぎてあまり運動にならない。Baybike はママチャリなので走りが重たい。しかも前に籠がついているので買い物に都合が良い。
ステーションごとに返却しては同じ自転車を改めて借りる。
(月極契約で払っているので1回30分以内なら何度借りても無料)
みなとみらい、赤レンガ倉庫、大桟橋、横浜公園、など、都合4回借りて返すを繰り返して最後はホームセンターで洗剤類の買い物をして帰宅。
シャワーを浴びて、こんどは自分の自転車で出勤。
途中、伊勢佐木町の「COCO壱番」でメンチカツカレー。
黄金町バザール開催中の日曜日とあって、黄金町には沢山の人が歩いている。
書き下ろしの取材・構想モードから、執筆モード(正確には連載長編の改稿)への遷移期間。けっこうこのモードチェンジは難しいのだ。
書く感覚を取り戻すために、まずは連載のエッセイを書く。
夕方、同じ棟のカフェ「試聴室その2」で開催されていた南インドの料理のイベントの人が、「よろしかったら食べに来ませんか」と誘ってくださったので、夕食は南インドのカレー。
カレーといっても昼のカレーとはほとんど似ていない。
(僕はカレーを10食続けても平気な人だけど)
夜になって、二ヶ月ぶりに長編へ戻るため、改稿する後半部分までの物語の運びを再レビュー。
他の物語を考えているときには、自分が書いたものでも他の物語はすっかり忘れてしまう。(逆にそれが必要でもある)
いつのまにか雨が降ったらしく、道路が濡れている。
注意深くペダルを漕いで家に着いたのは午前0時過ぎ。
溜まっていた洗濯をする。
なかなか被災地の写真を掲載できないなあ。
横浜トリエンナーレのシャトルバスで横浜美術館から黄金町へ移動。
被災地旅行中で民主党代表選をフォローしていなかったので、とりあえず野田候補の演説を聴く。
聴き手(政治家)をしっかり想定して、心を動かすような演説になっている。この人はこれで当選したんだね。
政策が今ひとつはっきり見えてこないけれど、政治家にとって演説が上手なのは重要な要素。
深夜近くに帰宅しようと「かいだん広場」の横を通りかかったら、アーチスト仲間が数人飲んでいて、誘い込まれる。
そろそろ帰ろうとしたら、こんどは海外アーチストのグループがビールとツマミをもって合流してくるので帰れなくなる。(笑)
そこからは宴会の公式言語が英語になる。
黄金町のアートストはたいてい英語ができるのだ。
オハイオから来ているフィリースが英語を話すのを初めて聞いた。ふだんはすごく自然な日本語を話している。
「なんだ、英語話せるんだ、上手じゃん」
と、英語でアメリカ人をからかう。
午前1時前に散会。
腹が減ってしまったので、中華一番でワンタン(500円)。
家に向かって歩き始めたら雨が降ってきたので、タクシーに乗ってしまった。(1340円)
予定外の散財。
怒濤の執筆期間前の養生。
午前10時、近所の歯科へ。一連の治療完了。
午後3時、狛江の矯正歯科へ。年に一度の点検。(昨年はサボってしまったので、実は2年に一度)
黄金町へ戻って、午後5時半から、黄金町バザールの公式レセプション。
横浜市長、神奈川県警本部長、なども来てスピーチしている間、外で仲間のアーチストたちとお喋り。
乾杯から怒濤の食欲。
アーチストはみんな貧乏で日々食べるのにも苦労しているから、こういうときにはしっかり食べる。
寿司の桶があっというまに空になる。
僕も中トロを4つも食べた。(笑)
実は、その隣にある鳥保のヤキトリも負けず劣らず美味しかったりする。
階段広場で地域のご婦人たちのコーラス。
技術的に上手ではないけれど、ちゃんと練習したよい音楽。
売春施設が250もあったこの町に、こんな広場ができて地域に住むふつうの人がコーラスを披露できるようになったことがとても素晴らしい。
歌う人も、聴いている人も、その瞬間、それぞれに自分たちの町が自分たちの手に戻ってきたことを実感していたと思う。
今日は仕事をしないことにして、都橋のなじみの店に立ち寄って、テレビでワールドカップ予選「日本x北朝鮮」の試合の後半を見ながらサントリー角をロックで飲む。
今回の旅行で、僕は、宮城県名取市閖上と福島県双葉郡川内村の二つの対照的な被災地を訪ねた。
川内村は福島第一原子力発電所30km圏の中でも放射線量の低い場所だ。
地震で亡くなった人はいないけれど、住民の9割以上が避難してしまっている。放射能は低くても、仕事もできないし、生活物資も不自由で、ひどく暮らしにくくなっているのだ。避難しないといろいろなお金ももらえなかったりもするらしい。
村はほとんどの建物の窓は閉め切られ、カーテンも閉まっている。ゴーストタウンでみたいな町に、点々と人のいる場所がある。人のいる家があるとほっとする。
残っている人は必死に今までと同じ暮らしをしようとしているけれど、家も壊れず、自分の周辺に何の目に見える変化もないけれど、目に見えない放射能によって、人がいなくなり、その結果、暮らしが変わってしまった。
おそらく将来も変わってしまっている。
あたりは岩盤の上にあり、いろいろな場所を見せてもらったけど、ほんとに地震の被害は少ない。横浜と大して変わらないといってもいいくらいだ。であるのに明らかに「被害」を被っている。
一方の名取市は、人口の一割の人が亡くなり、家も店も会社もなくなってしまった。町は跡形もなく消えてしまった。
見かけ上、何も変わっていない川内村とは対照的だ。
「津波の人は、3月11日で災害が終わっているけれど、福島はいまも災害が続いている」
福島の人がいうのを聞いた。
確かに、閖上ではほとんどの土地はから瓦礫が取り除かれ、半壊の家屋は解体され、新たに整地されて更地になっている。
家も作品もすべてなくしてしまった名取の icoさんは、新しい絵を描き始めているけれど、川内村の人は何もできずにいる。
川内村では、ほとんど何も壊れていないのに、自分の努力で災害から脱出できるという希望がもてない。希望をもつとしたら、村を捨てて別の土地で人生をやり直す決心をしなくてはならない。
どちらの災害も大変なことであり、災害の程度を比較することは無意味だけれど、原子力発電所の事故という災害が、いままでの種類の災害とはちがった性格を持っていることだけは確かだ。
Nさん宅の並びの空き住宅の寝袋の中で目覚める。
そこは、3月11日の直後、避難してきた人が何人か泊まり込んでいたらしい場所で、その時のまま時間が止まっていた。
寝具や備蓄物資がそのままで、3月13日付けの地元紙「福島民友」が置いてある。
その一面の大見出しは「原発建屋が爆発」。
朝食は、ふんだんなコーヒー、パン、福島の桃、茨城の梨、ソーセージ、など。
一段落したところで、Nさんに運転を任せて、村内を案内してもらう。
まず諏訪神社。
次は相模原6年前に村にリタイア移住して来たOさん夫妻のところ。
段々畑何段分もの土地を自分の庭にして、野菜や花を育てている。
今年は放射能のせいで野菜はやめて花をたくさん育てているという。
庭には林も池もあり、ものすごい種類の動植物が棲息している。そして、自分の庭以外には一切の人工物が見えない自然の借景。
説明してくださったご夫妻の顔がいちいちうれしそうだった。
そして、立派なキャンプ場と遊歩道のある高塚高原。
ここの放射線量はちょっと高くて0.7μSV/hほど。
キャンプをするにはちょうどいい気候だけど、閉鎖されていて誰もいない。
尾根に並ぶ風力発電の風車を見たかと思うと、沢沿いのワインディングロードを降りる。
お昼は「天山」という手打ち蕎麦の店。
小松屋という旅館がやっていて、そこは名誉村民である草野心平が投宿していたという。
歯ごたえのいいお蕎麦でした。
ほとんどが避難所のある郡山ビッグパレットに移動して「支所」になっていまった川内村役場の村長室の窓の外には、空間放射線のモニタリングポストがある。
草野心平が村に寄付した蔵書を収めてある天山文庫。
和尚さんが逃げてしまって一部が崩れたままのお寺。
その霊廟の上は、遺族がいつでも位牌を拝めるように無施錠になっている。
そこに巡回してきた警察が「施錠に不完全な部分があり防犯上望ましくありません」と紙が挟んである。(鍵がかかっていないとわかってしまうではないか)
その扉を開けると、位牌や燭台が床に散乱したままになっていた。
「かわうちの湯」のとなりにある観光協会の「あれこれ市場」は、農産物直売所のはずだったのに、買う人も売る人もいない今は、がらんとした休憩所になっている。
少しでも人が集まれるようにということだろう、御菓子と飲み物のセットが100円で、さらにはきゅうりの漬け物がつく。
強制避難区域から避難してきている割烹料理屋の大将がいて、ここには書けない話をしてくれた。
駐車場に何台も観光バスが止まっているが人はいない。
近づいてみると、運転席も客席もビニールで被われている。一時帰宅のためのバスだ。
汚染地域に入るバスだからこの場所から外へは出ないようにしているのかもしれない。
タイヤの放射線量を計ってみたが、0.4μSV/h程度で、取り立てて高くはなかった。(除染後だから低いのかもしれないが)
やがてNさんが道なき道へ分け入ると、ほどなく視界の開けた平原に出た。
緑の山々が連なっている中に見えるのは、原発からの電力を送り出す送電線。電波時計で使っている電波の送信アンテナ。そしていまは皮肉に見える風力発電の風車。
Nさんのガイドと運転なしでは知ることのできない川内村ガイドツアーはそこで終わり。
午後3時過ぎ、お宅まで戻って、そこで暇乞いをして、横浜への帰路についた。「早く帰るよりも楽に帰ろう」を合い言葉に、家に着いたのは午後10時をまわっていた。
(写真はまた別途)
