日: 2006年11月27日

沖縄4日目

 午前9時すぎ起床。
 目覚ましもかけたのだが、そのまえにジェット戦闘機の騒音で目覚めた。
 まごうことなき米軍基地の町。僕のいる部屋は基地のゲートまで歩いて5分だ。
 ジェット機の音をバックに、三線の音。
 コザに滞在するのは4度目で滞在日数合計20日以上になる。ずっと基地の近くにいるわけだけど、かなりの轟音でも基地の騒音を不快に思うことはほとんどない。町にふつうに兵隊がいて、彼らの日常とこちらの日常とが共存しているし、交流もある。すでにアメリカの兵隊はこの町の住人という感じがする。いて欲しくない人々ではなく、コミュニティの一員だと感じる。
 所詮、僕が短期の滞在者だからなのかもしれない。軽々しくこういうことを言うべきではないかもしれない。地域の事情、個人の事情はさまざまでひとことでは語れない。
 しかし、少なくとも基地があることでこのコザという町が輝きをもっていることだけは確かなのだ。経済だけでなく、独特の文化ができてこの町を文化的にも豊かにした。
 この町の文化は日本中に誇ることができる。戦後60年かかって、アメリカと沖縄が接触してできた素晴らしい文化。
 朝起きて午前11時までに、ジェット機の音がしたのは50回以上。三線の音もずっとしている。どちらもこの町の音だ。
 僕じゃなくて選択は当事者である沖縄の人が決めることだけれど、嘉手納基地がなくなってしまったら、コザという町に限っていえば、ここがお金も魅力もない町になることだけは確かだと思う。
 人を殺す道具である灰色の戦闘機の映像をテレビで見るとゴロゴロジャリジャリと口に中に違和感を覚えるけれど、この町の路上に立って酔っぱらって天衣無縫(英語で言えば crazy )に楽しんでいる兵隊をみれば、むしろ彼らを可愛いと思うし、同じ人間だと感じる。
 軍隊は固い武器の塊であると同時に、やわらかい人間の塊でもある。どちらを見るかで見え方はまるでちがう。
 たしかに、琉球王朝から現代にいたるまで沖縄には屈辱的歴史もあった。日本からもアメリカからも、沖縄はひどい扱いを受けた。
 けれど、どっこい沖縄の人だってたくましい。交わるところは交わり、自分たちを失わず、ちゃんと米軍基地という「環境」を自分のものにしている。
 本土の人が新聞やテレビで見聞きして想像するように、騒音に耳を塞いでじっと苦痛を堪え忍んでいるわけじゃないし、米軍が落とすお金にへつらっているわけでもないさあ。
(マクロには沖縄は「援助」「補償」に大きく依存しているのだけれど)
 昼食はミッキー食堂でタコライス。(500円)
 ミッキー食堂は以前はゲート通りの胡屋十字路近くにあり、カウンターの高さもアメリカサイズだったけれど、交差点付近の再開発で中央パークアベニューに移った。量はあいかわらずアメリカンだけれど椅子の高さはジャパニーズにかわった。
 デイゴホテルで入浴。(500円)
 夕食はリンリンで沖縄ソバ。(500円)
 午後8時に目がけてうるま市にある宮永英一の「鼓響館」へ。(バス代250円)
 一年ぶりにCHIBIに会う。
 オキナワンロックに関するテレビ番組をビデオで見たり、彼がプロデュースした城跡でのライブの映像を見たり。
 他にいたお客さんの迷惑も顧みず(笑)持参したギターをもって宮永英一とセッション。というとカッコイイが、まあ、音を合わせて遊んでもらった、ということ。
 宮永英一といえば、80年代、日本のロックの最高峰として君臨し一世を風靡したバンド「紫」のドラマー。彼のドラムをバックにギターを弾いて歌ったというのは、たとえていうならNHK交響楽団をバックにピアノコンチェルトを弾いたようなものである。(いやマジで)
 僕の演奏は根っからボロボロで、勢いだけで楽しませてもらったのだけれど、こちらがご迷惑をおかけした他のお客さんから飲み代を奢って戴く、というとんでもないオマケまでついて、恐縮至極。(したがって飲み代はタダ)
 あとはいつものことだが、音楽について、ロックについて、沖縄について、宮永英一、語る語る。(笑)
 午前1時頃、タクシーで胡屋十字路までもどる。(1410円)
 また中の町の「SHUN」へ行くと、思った通り、琉球紅型染の金城宏次がいた。昼間電話して、水曜あたりに飲みましょうね、と話していたのだが、実はそれ以前にどこかの飲み屋で会えるだろうと思っていた。
 コザでは僕はお釈迦様のように、誰がどこで飲んでいるかわかってしまうのである。(笑)
 アルコールを控えているのでビールだけ。(お通し込み800円)
 7時間飲み屋にいたけど、なんとかジョッキ二杯だけで切り抜けた休肝日(?)であった。