Diary

タウンミーティング「やらせ」問題

 タウンミーティングというのは、政府がやろうとしていることを国民に伝える、ようするにプロパガンダのための仕組みだと思っていたので、やらせがあることはむしろ当たり前だと思うのだけれど、世間の人はそう思っていなかったということなのかな。(いや、世間ではなく単にメディアが、ということかも)
 ちょっと意外でした。
 当日、都合の悪い意見を封殺したというのなら問題だけど、開催者の意図に沿った質問があるのは、そういう会なのだから当然だと思う。
 共産党の政治集会に行けば共産党の主張を発言がでるのと同じように、タウンミーティングは政府の政治集会みないなもの。
 ここで重要なのは、政府は国民によって選ばれていて、支持された政策を迅速に実行する「義務」があるから、できるだけ啓蒙して賛成者を増やし、スムーズに政策を実行できるような環境を作っていく努力をするのは当然なわけです。(政府は国民全体と対立しているわけではなくて、少なくとも多くの国民の支持によって政策を実行しようとしているのだから、できるだけ政府に賛成の人を増やそうとするのは当たり前のことで、それが民主主義そのものなのだから)
 政府の意見に反対である人は、独自に別の討論会を開くこともまた自由で、それぞれがそれぞれの立場で、自分の意見の支持者を増やそうと活動して競い合うことこそ民主主義なのだと思う。
 政策の決定から施行の過程で、政府側が公平な場を用意することこそ当たり前だという発想はあまりにナイーブというか、「お上」にそういう場まで用意して頂く、という発想で、むしろ民主主義的ではないように思う。
 自分以外の人が理想的な仕組みを作ってくれてそれに乗るのではなく、互いに相克して、結果としてバランスの取れた社会を、「(時に敵対を通じて)共に創り上げる」ことこそ民主主義というものだ。
 そもそも政府は国民の支持を得て政府たり得ているという点を忘れて、なんでも政府が国民の敵であるかのように捉えるのは、階級闘争的なイデオロギーのバイアスがかかった考え方だと思う。
 そもそも民主主義とは異なる主張の戦いの結果であり、だれか他人によって与えられるものではない。
 でも、世界史を勉強していない人は、そういう風に思えないのかもしれないな。
 だめじゃん。やっぱり世界史は勉強してください。

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金沢からJリーグ

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 永らく外飲みを封印してましたが、臨時に解禁。
 というのも、僕が所属するサッカー/フットサルチームFC-JIVEのチームメイトが、Jリーグ入りを目指すクラブチーム「ツエーゲン金沢」のフロントに転職することになり、壮行会があったのでした。
 将来不安定収入大幅ダウン和歌山との遠距離恋愛はさらに困難でチャレンジングなフェーズに突入するにもかかわらず、リアルワールドで「サッカーチームをつくろう」に挑戦するというわけで、みんなでいろいろ熱く語ったのでした。
 3時からの練習は欠席して宴会だけ参加。
 久々に球蹴り仲間と酒が飲めてすごく楽しかった。
 読者のみなさま、地域からJを目指すチームを、機会があったら、取り上げてください。取材対応もしますので、僕宛にお知らせください。チームフロントにつなげます。
 あらゆる媒体露出、スポンサーシップ、後援会、などにご協力をお願いします。
 ベストセラーが出たら、agawataiju.net としてスポンサーに参加しようかと、鋭意、執筆に励みます。(笑)
ツエーゲン金沢
http://ishikawafc.com/index.php

また、履修不足問題を   「みんなやってる」の嘘 

履修不足のある学校名のリストです。
http://www20.atwiki.jp/hisshuu/pages/4.html
 まだ隠している学校もあるのでしょうか。
 あとで発覚したら、それこそ補習が間に合わなくて卒業できなくなってしまうから、隠すのはリスクが高すぎるはずですが。
 でも、(自称?)高校生のこんなブログもあります。
さて、
 現在のところ、全国の高校の約1割。あえていうとわずか1割です。
 少なくとも、「そんなことはどこの高校でもみんなやっている」という言説は事実ではありません。のこり9割の大多数の学校はちゃんとやっている。
 隠している学校があって、倍の二割としても、それでも「どこでもみんなやっている」というのは乱暴すぎて無理。

(追記:2006/11/11)
 「文科省は全国の大学生の16%が高校で必修の世界史を履修していないという調査結果を4年前に手にしながらアクションを起こしていなかった」との報道があり、つまり、結果として大学生の中で、世界史を履修していないのは16%程度であるということが別の角度からわかりました。
 高校生の大学進学率はここしばらく50%程度なので、進学校だけを対象に考えても、「履修逃れなんてみんながやっている」ということにはやはりならないことがわかります。
(追記:おわり)

「みんなやっている」というのは自分を正当化する貧しいギミックであって、事実を曲げて自分の罪悪感をごまかしているだけのことです。
 そもそも行動規範に、他人がどうしているか、は関係ないはず。
 世界中がなんていおうと、「僕は君が好きだ」と言えばいい。
 日本中がインチキしていても、自分はしない。受験制度に問題があるからといってインチキはしない。ゆとり教育に問題があるからといってインチキはしない。
 そういえない、そうしろと言わない教育って、いったい何?
 自分以外の何かに問題があったら、それを理由に自分はどんなズルをしてもいい、なんて、そんな教育はないだろう。 (それはそれ、これはこれ)
 競争で不利なら、制度に矛盾があるなら、「倍の努力をして克服しよう」というのが教育じゃないか。
 少なくともできるだけ負担を少なくすることではないはず。

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履修科目不足問題 がんばれ高校生!

 必須科目である世界史(平成6年からそうなったそうです)などの科目を受験に集中するために履修させていなかった高校がたくさんあることがわかってきて、3年生の卒業資格がなくなるかもしれないと、騒ぎがどんどん大きくなっています。
 災害の犠牲者の如く、新しい報道があるたびにその数が増えているので、実数が把握できないけれど。
 ルールがある以上、世界史をやった上で大学に入る、というのが当たり前なのに、なんで楽しようとするんでしょうね。
 教育の場で楽してどうするんだろう。
 苦労していろいろ学ぶ場で楽したら自分が損するわけです。
 そんなに目先の楽をしたいなら大学行かなければもっと楽です。
 でも、大学自体が目的ではなく、将来を豊かにするために大学へ行くのだから、豊かになれない勉強の仕方で大学へ行くのはもったいない。
 世界史を勉強しなくても大学に入ればこっちのもの、というほど人生も社会も甘くありません。世界史を履修して大学に入った人と、そうでない人は、すでに入った時点で差があるわけだし、放っておけば、その差は時間とともにもっと開いていきます。
 長期的みて世界史を勉強しておいた方が明らかに得です。(他の科目でもそうですが)
 知識という「タネ」があると外部の刺激から「興味」が生まれます。興味をもつと自分からどんどん情報を吸収しようとするので、結果として、少しの知識があれば、なにかのきっかけで百倍にも千倍にもなる。増殖するんですね。
 ところがタネがないとピンと来ないから、話を聞いてもテレビを見ても「つまんねえ」でおしまい。
 高校程度の知識というのはそういうタネの役割をするわけで、もともと世界史でならった年号が役に立つわけじゃない。でも、ちゃんとタネとして役に立つ。でも、「つまんねえ」で終わってしまう人は、そう口にしたその瞬間に、受験に関係ない高校の勉強が「役に立つんだということに気づくチャンス」すら失ってしまう。
 タネがないところに雨が降っても芽は出ない。雨はいつ降るかわからないから、チャンスを逃さないためにはタネを蒔いておく必要がある。高校で学習する知識というのはそういうものです。
 高校の知識が長い人生の間の知識や経験の格差を産むことになります。
(だって、そのために高校へ行くのであって、大学へ行くためだけに高校があるわけじゃない)
 そもそもどんないい大学を出たところで、それまでに学んだことよりもその後に学ぶことの方が何十倍何百倍も多いわけです。だから大学に入るかどうか、あるいは、「どの大学」に入るかが問題なのではなくて、大学を出てから知識を自分で増殖させる能力があるかどうかが将来を決めるといってもいい。
 同じ大学を出ても、知識を増やす能力が低い人は実りのある人生を送るのに圧倒的に不利になる。ランクが低いと思われている大学の卒業生でも知識増殖能力が身についていれば豊かな人生を送る上でとても有利になります。
 みすみす不利な選択をするのが「世界史を履修しないで受験科目だけを勉強する」ということなのに、それを学校がルールを無視してまでやってしまうなんて。
 高校で学ばなくてもあとで必要になればいつでも自分で学ぶことはできます。必要だと自分で気づく限りは。
 気づくことができれば大丈夫。問題はありません。高校で学んだところで、そのなかの知識自体はそれだけで役に立つわけではないから、結局、あとで自分で学ぶ必要があることは同じです。
 ところが高校で学ぶような基礎的な知識がないために「自分に必要だ」ということすら気づかない危険が高くなってしまう。その結果、ある人は必要なことを学び、ある人は必要なのに必要だと気づくことなく学ばない、ということになる。
 こうして格差は拡がっていきます。
 学校が受験科目以外を学習させないということは、そういう潜在的負け組国民を増やしていることになる。生徒たちがとてもかわいそうです。
 
 先日まもなく出るという東大に関するある本の著者に会いました。
 彼が東大生について調査をした結果、東大生は、中学の時も高校の時も本をたくさん読んでいるというのです。
 本というのは受験参考書のことではなく、小説や新書やノンフィクションやエッセイや解説書や、いわゆる本屋にならんでいる普通の本のことです。当然、それらの本を読んでも入試問題が解けるようになるわけではありません。
 世間で「受験の勝者」のように思われている東大生ですが、彼らは受験に役立たない(と思われている)ことをたくさんしているということがデータとしてわかったというわけです。
 一部の会社や官僚組織でもないかぎり、東大を出ただけで出世するなんてことは事実に反した単なる都市伝説であって、現実の社会はそんなに甘くはありません。むしろいい大学(と世間で思われている大学)を出た人が沢山いる一流企業ほど長い目でみて、ちゃんと実力主義になっています。
 実力というのは結局のところ、「自分で知識や経験を増やすことのできる力」や「人が気づかないことに気づく力」「だれもやったことのないことに挑戦できる力」のことで、会社員であろうと、ラーメン店のオーナーであろうと、教えられたことだけしかできない人、というのは社会で生き延びていくのがむずかしい。
 少なくとも教えてもらった知識を自分で増やせる人でなくてはならない。
 知識を増やすにはタネが必要です。そのタネはあとで自分で勉強するより、学校で習う方がずっと楽だし、知っていることが多ければ、人生の楽しみも多くなります。たとえ授業中寝ていても耳に必ず残っている。そのことに大きな価値があるわけです。居眠りする授業すらないなんて、それはあまりにひどいことです。
 受験科目ではなくても、勉強しておかないと絶対に損です。
 高校世界史の知識があるだけで、テレビだって映画だってドラクエだって海外旅行だって、何倍も面白くなります。ニュース番組がバラエティ以上に面白く感じられたりします。
 生活の中で我慢しながら人の話を聞く時間が減って、わくわくする時間が増えます。受験に関係ないけど高校のカリキュラムに入っているような知識は、一生のあいだ、人生を百倍楽しむための魔法の薬みたいなものです。
 3月31日までに履修すればいいので、受験が終わってからでも、50分x70回(6時間の時間割で2週間)の時間は取れます
 大丈夫。
 騒ぎに巻き込まれてしまった高校生のみんな、がんばって勉強してくれ!

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いったん立ち止まって

 数日前、370枚ほどのところまで書き上げた。
 そこで、ここのところ、3日ほどかけて、改めて頭からあらすじを抽出。まだ書いていないところを含めて、85枚ほどの「あらすじ」をいったん完成させる。
 目的は、
  1)つじつまが会わないところを洗い出しておくこと、
  2)残りの部分を書くにあたって勢いをつけるために展開をおさらいしておく、
  3)本格的な改稿の前に分量バランスやテンポなどを確認しておく、   など。
 ここから約100枚ほど書いて第ゼロ稿として、そこから改稿に入るという手順。
 これを含めて、もう1タイトル出版が決まっていながら未完成の書き下ろしがあるので、なんとなくどんよりとしたプレッシャーだ。少し前まで、だれにも頼まれもしない原稿を書いていたのだからして、こういうのにまだ心が慣れていないのだ。ありがたいことだけど。
 小説家の場合、忙しくても猫の手は借りられないので、自分でやるしかない。

化粧をしない女

 いまの日本で、だれにでも裸を見せることは推奨されていない。適宜、肌を隠すことが求められている。電車の中で化粧をする人に新聞投書欄で非難が寄せられるのも、たぶん「見せてはいけないもの」を露出させているという考え方が背景にあるからだろう。
 互いの裸を見ることは「特権的関係」にあるものだけが許される。誰にでも裸を見せるのは「おかしなひと」のやることだ、とみなされている。
 化粧をしない素顔は裸と同じようでもあり、違うようでもある。
 人の知らない「あなただけに見せる顔」や「自分だけに見せる顔」には「関係」が存在する。だれにでも見せているわけではない、ということが関係を産み出すわけだ。
 関係を確認する喜び、とりわけ男女にはそんなのがあるように思う。恋愛というのは関係を確認し続けることのようでもある。
 素顔はそのぎりぎりの境目だ。
 素顔の奥にも「あなたにしか見せない素顔」ももちろんある。けれど、だれにでも素顔を見せている、という言葉がちょっと面白くない。
 化粧をしないで素顔ですごす女性を恋人にもつと、ヌードダンサーを恋人にもったような複雑感情が生まれるように思う。
 少なくとも「裸を見る」という特権的行為が一般にも公開されていると、関係を確かめるために「裸以上」が必要になる。
 なるほど。そうか。恋愛というのは互いだけが知っている秘密の共有なのだな。
 どんなに境目の位置をずらしても、つねに「その先」はあるから、実はどっちでもいいような気もするんだけどね。逆にいえば、人はその先その先と追い求めることに疲れることもあり、たとえば、さっっさと裸になって開き直ったところから安らぎが産まれるということもある。
 さあ、これ以上先はないわよ、つきつめないで、いいかげんくつろぎなさい。
 裸や素肌に、そんなメッセージがあるのかもしれない。人間っておもしろい。
 とまあ、最近、化粧について続けていくつかネット上の書き込みを読んで感じたことを書いてみました。

化粧する女(2)

 化粧をする女と化粧をしない女のどちらがいいか、という永遠のテーマ(笑)がある。
 基本的に僕は努力と創造をリスペクトする。だから化粧をする人が好きだ。
 いうまでもなく二十一世紀、洋服は寒さを凌ぐ手段であるだけでなく、自分を表現する手段だ。同じように化粧は欠点を隠すものではなく、自分を表現する手段だと思う。化粧は新しい創造だと思う。
 あらゆる機会に自分を表現したい。そのスタンスがいいのだ。
 今日は素顔の自分を表現したい、と思えば、素顔に見える化粧をすることで、ほんとうの素顔よりも素顔らしい素顔ができるはず。
 化粧とはアートだから。
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 見かけに関して素顔のほうがきれいに見えるとしたら、それは化粧の技術が下手なだけ。
 上手な化粧なら、ちゃんと「きれいなスッピン」に見せることもできます。
 見かけではなく、肌の健康上の問題や、人間の心の問題はまた別だけど。
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化粧する女(1)

 電車の中で化粧をする女を非難する人がいる。たしなみに欠けるということなのだろう。
 ちゃんと家で化粧して出てくる人生の方がゆとりがあることはたしかだ。
 しかし、人生、のっぴきならない。
 睡眠時間三時間なら、五分でも余計に眠る方が化粧をするよりも妥当な時間配分だろう。
 では、五分余計に眠った結果、化粧をしないで家を出てきたとしよう。
 彼女は、身だしなみとして、化粧をするべきだと思っている。会社に着いたらすぐ仕事だ。だったら、電車の中で化粧をするか、一日中化粧をしないか、どちらかしかない。
 自分のあるべき姿にできるだけ近づこうとして、人は最善の努力をするべきだ。家で化粧ができなかったら、電車の中でするのは次善の策である。
 どこがいけないっていうんだ。
 人の努力を否定して足を引っ張ることはないじゃないか。
 自分の倫理観や価値観に合致しない人がいるからといって、その人の生き方をとやかくいうもんじゃない。(ていう意見も僕の価値観でとやかくいっているんだけどさ)

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田園交響曲 ブルーノ・ワルター指揮

 子どもの頃、家にコロンビアの電蓄があって、SPレコードがいくつかあった。
    ベートーベン 交響曲第6番「田園」  ブルーノ・ワルター ウィーンフィル
    ベートーベン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 演奏家は記憶にない
 これらは5枚組でそれぞれ一曲だった。 一曲聴き終わるのに何度もかけ替えるの。
 その他に、モーツアルトの40番、41番なんかがあった。
 レコードが回りながらアームが揺れるのが面白くて、盤面を見ながらよく聞いていた。
 あるとき、この田園を聞きたくなって、探したらCDで発売されていた。なんと1936年の録音だ。
 CDなのにスクラッチノイズがあるし、もちろんモノラルだし音は悪い。
 仕事のBGMにワルターの田園を久しぶりにかけてみた。
 最初「音が悪いなあ」とまず思うのだけれど、ずっと聞いているとそんなことは関係なくなっていつのまにか引き込まれているのだ。
 ときどき不思議な懐かしさを感じる。どの田園ともちがう、幼少の記憶の奥にある田園だとしみじみ思う。意識しないでものすごく細部が魂の中に刻まれているのだと思う。
 やがて、小学校4年で大阪の豊中に引っ越して、そこで初めてLPレコードのクラシックを買ってもらう。
 カラヤン・ベルリンフィルの「運命・未完成」。
 これも同じモノラルの電蓄で散々聴いた。なにしろ、他にほとんどレコードがなかったから、毎日家に帰ると裏表をそれぞれ二回ぐらい聴いていた時期がある。
 たぶん、あらゆるレコードやCDのなかで、いちばん繰り返し聞いた曲だと思う。その前もあとも、これほど聴いた曲はない。
 まだ家にあるけれど、擦り切れていて、音がシャアシャアいうし、針の重いモノラル電蓄で何度も聞いたせいで、ステレオ録音のはずなのに、音はほとんどモノラルになってしまっている。

「With You」

10月4日(初日)  新宿・シアター・サンモール
原作・総合プロデュース 神田昌典
脚本・演出 永井寛孝
 僕自身、劇団「夢の遊眠社」の創立メンバーであり、芝居を創ってきた経験があるので、演劇一般について作り手側の視点で見てしまうことを、まずはじめにお断りしておきます。
(以下、文中、敬称を略す)
 この演劇については、ひとことでいうと「楽しかったが居心地が悪かった」というのが率直なところだ。
 この芝居を観て、僕はたくさん笑ったし、楽しかった。だが、反面、観ている間に何度も落ち着かない気持ちになった。

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