ちょっといわせて

クジラを救うという発想

 クジラが港に迷い込み、それを外へ出そうとしていた人が亡くなった。
 クジラが狭いところに迷い込むのは、頻繁にあるわけではないけれど、クジラの習性の一部で、別に異常ではない。
 それを人間が外へ出す必要はないと思う。
 中にいられちゃ迷惑だというのが本音だ、というならわかるけれど、「救う」という発想が本当なら、それは人間の奢りだと思う。
 人間が見ているところでもそうでないところでも、野性の生物は産まれ、いろいろな理由で死んでいく。それが自然というもので、そこに人間が介入するのはおかしい。たまたま目に見えている自然を、人間が自分の思うとおりにしようとする。その発想が好きではありません。あえていうなら、それは自然破壊だと思う。
 クジラが死なない自然なんて、この地球にはない。
 なぜ、クジラの死を自然の一部として見ていられないのか。
 クジラは多くの小さな魚類の天敵だから、クジラが死ねば代わりにエサになる生物が救われる。クジラが死ぬのはかわいそうで、クジラが生き延びることでエサとして食べられるイワシはかわいそうではない、というのは、人間の勝手な感情であって、クジラを救うことは自然を救うことでもなんでもない。
 自然というのは、だれかが生きれば代わりにだれかが死んでいく、そういうものではないですか。
 亡くなった方はお気の毒だけれど、彼のやろうとしていたことに僕は賛成できない。やるべきでないことをして命を落としたから、よけいに痛ましい。
 それにしてもライフジャケットをしていなかったなんて、自然をなめている。自然は、胡散臭いヒューマニズムの場所ではなく、野性の場だ。海も、クジラも。体長15mのマッコウクジラに長さ数mの小舟で近づくことの危険を自分で判断できず、こともあろうに縄をかけて引っ張ろうとした。そこでクジラが暴れないと判断することに人間の異常さを感じる。
 ヒューマニズムが通用するのは人間の世界だけだということを、彼は知らなかったのだろうか。

戦争と人生

 叔父の葬式、午前9時過ぎに家を出て午後8時帰宅の一日仕事。
 叔父の棺には、予科練のころの集合写真があった。
 叔父には戦争の話を聞かせてもらいたかったが、彼が予科練だったことで、僕の心の準備ができなかった。16歳かそこらで国のために命をかけようと思い立った人と向き合うには、こちらにもそれを受け止める覚悟が必要だと感じていた。
 話を聞ける自分になろうとわざわざ江田島の海軍兵学校へ行ってみた。だが、そこでみたものは、自分の青春と当時との差であり、かえって道は遠のいてしまったのでした。
「おじさん、教えてくれ」と虚心坦懐に何も知らずに聞きに行けばよかったのかもしれない。
 叔父が予科練にいたころは、日本にはもうたくさんの飛行機を作る国力も、飛行士を養成する時間もなくなっていた。叔父は飛行機ではなく、水上特攻艇「震洋」というので訓練していたらしい。人間魚雷回天が有名だけれど、僕が江田島で模型で見た震洋はベニヤ板でつくった、子供だましみたいなチンケな小舟だった。
 あれでは軍艦の曳き波でも簡単に転覆してしまうだろう。
 特攻のとき、突っ込むこともできずに波に煽られて転覆して死ぬ姿が想像できてしまう。それだけで泣けてくる。
 乗ってみれば、彼らも訓練中に自分の最後をそのように想像したにちがいない。国のために死をいとわないという志を、きちんと受け止める国力すら日本にはなく、死に場所としてあまりにみじめなベニヤの船と、「特攻」にすら性能が不十分な船で、多くは「犬死に」が待っていたばかりだった。
 棺の中の予科練当時の集合写真。
 そのセピア色の集合写真を見て、このうち何人が生き残ったのだろうという思いが浮かび、6人の孫まで儲けたことを思えば、戦争で死なずに今年の正月二日まで生きていて本当によかったと思って涙が出た。
 叔父が死んだことよりも、彼がその日まで生きたことを喜ぶ気持ちがした。
 原稿は書けずに、疲れて就寝。

定点観測:またコットンマム

 一ヶ月半ぶりにスーパー「コットンマム」へ行った。
 前回は10月1日
 ちかくのコットンハーバータワーズに入居が進んだのか、土曜の夕方、店内にはけっこう人がいる。
 屋上の駐車場にはそれほど車が入っていない。
 つまり、コットンハーバータワーズ以外からの買い物客はあまり多くないようだ。
 車でなら遠くない商圏、ポートサイド地区やみなとみらい地区では、地元のプラザ栄光生鮮館ポートサイド店、みなとみらい店が、それぞれ対抗策を打ち出しているのだ。
 みなとみらい店ではメール会員にタイムセールとして、価格100円未満の目玉商品を毎日のように告知しているし、ポートサイド店では精肉部を担当している Motomachi Union がぴったりコットンマムに照準を合わせて、土日に牛肉全品50%引、を毎週実施している。
 生鮮食料品を買うスーパーというのは、目玉商品で顧客を呼べば、他の商品もそこで間に合わせてしまうので、土日に牛肉を買いだめさせてしまえば、ポートサイド住民は平日にコットンマムへ行く機会もあまりなくなる。
 みなとみらい、ポートサイドの両地区は夫婦共働きか、リタイヤ後の高齢層が住んでいる。共働き層は週末にまとめ買いをするので、土日に客を押さえれば平日にはあまり買い物をしないので、競争相手のシェア獲得をブロックできる。
 土曜夕方にも屋上駐車場にあまり車が入っていないのは、そのような近隣スーパーの作戦がかなり成功していることをうかがわせる。
 高齢層はもともと車で買い物には出ないので、コットンマムの高級な品揃えはむしろ、横浜駅のデパ地下、成城石井、などを利用することになるだろう。(もともとコットンマムの商圏ではない)
 10月1日にも指摘したが、コットンハーバータワーズの住民層とコットンマム品揃えの高級食材とはミスマッチがあるので、今後も厳しいビジネスが続きそうだ。さらにみなとみらいの中心部にスーパーができることも決まっている。
(訂正:2007年7月現在みなとみらいに新しいスーパーができる話はないようだ)
 あいかわらず野菜は安くて鮮度がいい。
 やげん堀など七味唐辛子の種類が増えていた。(前からあって僕が見落としていたのか?)
 鮮魚・精肉は「物はいいが価格も高い」(青果のように割安感がない)ので、一部の廉価品以外はあまり売れている形跡がない。
 ただ、買わないまでも豊富な品揃えを見ながら、実際は定番や廉価商品を買う、というのは「豊かな買い物」なので、高級品を見せながらきちんと廉価商品を用意してくれさえすればば、プラザ栄光生鮮館などよりもずっと気持ちのいい買い物ができていいと思う。
(売れ筋だけでなく売れない品揃えを豊富にすることで、実際は売れ筋しか買わないけどより多くの客を呼ぶのが、かつての「東急ハンズ」のビジネスモデル)
 以上、経済小説 を書いている主夫、阿川大樹の提言でした。

 このブログのコットンハーバー関連のエントリーは ここ から。
「フラ印ポテトチップス」があるのがうれしかったのでを買ってみた。
 だけどまるでふつうのポテトチップス。
 東京スナックへのライセンス商品ということだが、どうやら商標だけのライセンスらしく、ギトギトカリカリで食べ応えのあるアメリカで売られているあの「フラ印」とは似ても似つかぬ味だった。ならばなんでわざわざフラ印なんてつけるのさ。大いにがっかり。(コットンマムの責任ではないけど)
 やっぱりいまのところ「堅あげポテトチップス」がいちばんだ。(笑)

また、履修不足問題を   「みんなやってる」の嘘 

履修不足のある学校名のリストです。
http://www20.atwiki.jp/hisshuu/pages/4.html
 まだ隠している学校もあるのでしょうか。
 あとで発覚したら、それこそ補習が間に合わなくて卒業できなくなってしまうから、隠すのはリスクが高すぎるはずですが。
 でも、(自称?)高校生のこんなブログもあります。
さて、
 現在のところ、全国の高校の約1割。あえていうとわずか1割です。
 少なくとも、「そんなことはどこの高校でもみんなやっている」という言説は事実ではありません。のこり9割の大多数の学校はちゃんとやっている。
 隠している学校があって、倍の二割としても、それでも「どこでもみんなやっている」というのは乱暴すぎて無理。

(追記:2006/11/11)
 「文科省は全国の大学生の16%が高校で必修の世界史を履修していないという調査結果を4年前に手にしながらアクションを起こしていなかった」との報道があり、つまり、結果として大学生の中で、世界史を履修していないのは16%程度であるということが別の角度からわかりました。
 高校生の大学進学率はここしばらく50%程度なので、進学校だけを対象に考えても、「履修逃れなんてみんながやっている」ということにはやはりならないことがわかります。
(追記:おわり)

「みんなやっている」というのは自分を正当化する貧しいギミックであって、事実を曲げて自分の罪悪感をごまかしているだけのことです。
 そもそも行動規範に、他人がどうしているか、は関係ないはず。
 世界中がなんていおうと、「僕は君が好きだ」と言えばいい。
 日本中がインチキしていても、自分はしない。受験制度に問題があるからといってインチキはしない。ゆとり教育に問題があるからといってインチキはしない。
 そういえない、そうしろと言わない教育って、いったい何?
 自分以外の何かに問題があったら、それを理由に自分はどんなズルをしてもいい、なんて、そんな教育はないだろう。 (それはそれ、これはこれ)
 競争で不利なら、制度に矛盾があるなら、「倍の努力をして克服しよう」というのが教育じゃないか。
 少なくともできるだけ負担を少なくすることではないはず。

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履修科目不足問題 がんばれ高校生!

 必須科目である世界史(平成6年からそうなったそうです)などの科目を受験に集中するために履修させていなかった高校がたくさんあることがわかってきて、3年生の卒業資格がなくなるかもしれないと、騒ぎがどんどん大きくなっています。
 災害の犠牲者の如く、新しい報道があるたびにその数が増えているので、実数が把握できないけれど。
 ルールがある以上、世界史をやった上で大学に入る、というのが当たり前なのに、なんで楽しようとするんでしょうね。
 教育の場で楽してどうするんだろう。
 苦労していろいろ学ぶ場で楽したら自分が損するわけです。
 そんなに目先の楽をしたいなら大学行かなければもっと楽です。
 でも、大学自体が目的ではなく、将来を豊かにするために大学へ行くのだから、豊かになれない勉強の仕方で大学へ行くのはもったいない。
 世界史を勉強しなくても大学に入ればこっちのもの、というほど人生も社会も甘くありません。世界史を履修して大学に入った人と、そうでない人は、すでに入った時点で差があるわけだし、放っておけば、その差は時間とともにもっと開いていきます。
 長期的みて世界史を勉強しておいた方が明らかに得です。(他の科目でもそうですが)
 知識という「タネ」があると外部の刺激から「興味」が生まれます。興味をもつと自分からどんどん情報を吸収しようとするので、結果として、少しの知識があれば、なにかのきっかけで百倍にも千倍にもなる。増殖するんですね。
 ところがタネがないとピンと来ないから、話を聞いてもテレビを見ても「つまんねえ」でおしまい。
 高校程度の知識というのはそういうタネの役割をするわけで、もともと世界史でならった年号が役に立つわけじゃない。でも、ちゃんとタネとして役に立つ。でも、「つまんねえ」で終わってしまう人は、そう口にしたその瞬間に、受験に関係ない高校の勉強が「役に立つんだということに気づくチャンス」すら失ってしまう。
 タネがないところに雨が降っても芽は出ない。雨はいつ降るかわからないから、チャンスを逃さないためにはタネを蒔いておく必要がある。高校で学習する知識というのはそういうものです。
 高校の知識が長い人生の間の知識や経験の格差を産むことになります。
(だって、そのために高校へ行くのであって、大学へ行くためだけに高校があるわけじゃない)
 そもそもどんないい大学を出たところで、それまでに学んだことよりもその後に学ぶことの方が何十倍何百倍も多いわけです。だから大学に入るかどうか、あるいは、「どの大学」に入るかが問題なのではなくて、大学を出てから知識を自分で増殖させる能力があるかどうかが将来を決めるといってもいい。
 同じ大学を出ても、知識を増やす能力が低い人は実りのある人生を送るのに圧倒的に不利になる。ランクが低いと思われている大学の卒業生でも知識増殖能力が身についていれば豊かな人生を送る上でとても有利になります。
 みすみす不利な選択をするのが「世界史を履修しないで受験科目だけを勉強する」ということなのに、それを学校がルールを無視してまでやってしまうなんて。
 高校で学ばなくてもあとで必要になればいつでも自分で学ぶことはできます。必要だと自分で気づく限りは。
 気づくことができれば大丈夫。問題はありません。高校で学んだところで、そのなかの知識自体はそれだけで役に立つわけではないから、結局、あとで自分で学ぶ必要があることは同じです。
 ところが高校で学ぶような基礎的な知識がないために「自分に必要だ」ということすら気づかない危険が高くなってしまう。その結果、ある人は必要なことを学び、ある人は必要なのに必要だと気づくことなく学ばない、ということになる。
 こうして格差は拡がっていきます。
 学校が受験科目以外を学習させないということは、そういう潜在的負け組国民を増やしていることになる。生徒たちがとてもかわいそうです。
 
 先日まもなく出るという東大に関するある本の著者に会いました。
 彼が東大生について調査をした結果、東大生は、中学の時も高校の時も本をたくさん読んでいるというのです。
 本というのは受験参考書のことではなく、小説や新書やノンフィクションやエッセイや解説書や、いわゆる本屋にならんでいる普通の本のことです。当然、それらの本を読んでも入試問題が解けるようになるわけではありません。
 世間で「受験の勝者」のように思われている東大生ですが、彼らは受験に役立たない(と思われている)ことをたくさんしているということがデータとしてわかったというわけです。
 一部の会社や官僚組織でもないかぎり、東大を出ただけで出世するなんてことは事実に反した単なる都市伝説であって、現実の社会はそんなに甘くはありません。むしろいい大学(と世間で思われている大学)を出た人が沢山いる一流企業ほど長い目でみて、ちゃんと実力主義になっています。
 実力というのは結局のところ、「自分で知識や経験を増やすことのできる力」や「人が気づかないことに気づく力」「だれもやったことのないことに挑戦できる力」のことで、会社員であろうと、ラーメン店のオーナーであろうと、教えられたことだけしかできない人、というのは社会で生き延びていくのがむずかしい。
 少なくとも教えてもらった知識を自分で増やせる人でなくてはならない。
 知識を増やすにはタネが必要です。そのタネはあとで自分で勉強するより、学校で習う方がずっと楽だし、知っていることが多ければ、人生の楽しみも多くなります。たとえ授業中寝ていても耳に必ず残っている。そのことに大きな価値があるわけです。居眠りする授業すらないなんて、それはあまりにひどいことです。
 受験科目ではなくても、勉強しておかないと絶対に損です。
 高校世界史の知識があるだけで、テレビだって映画だってドラクエだって海外旅行だって、何倍も面白くなります。ニュース番組がバラエティ以上に面白く感じられたりします。
 生活の中で我慢しながら人の話を聞く時間が減って、わくわくする時間が増えます。受験に関係ないけど高校のカリキュラムに入っているような知識は、一生のあいだ、人生を百倍楽しむための魔法の薬みたいなものです。
 3月31日までに履修すればいいので、受験が終わってからでも、50分x70回(6時間の時間割で2週間)の時間は取れます
 大丈夫。
 騒ぎに巻き込まれてしまった高校生のみんな、がんばって勉強してくれ!

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化粧をしない女

 いまの日本で、だれにでも裸を見せることは推奨されていない。適宜、肌を隠すことが求められている。電車の中で化粧をする人に新聞投書欄で非難が寄せられるのも、たぶん「見せてはいけないもの」を露出させているという考え方が背景にあるからだろう。
 互いの裸を見ることは「特権的関係」にあるものだけが許される。誰にでも裸を見せるのは「おかしなひと」のやることだ、とみなされている。
 化粧をしない素顔は裸と同じようでもあり、違うようでもある。
 人の知らない「あなただけに見せる顔」や「自分だけに見せる顔」には「関係」が存在する。だれにでも見せているわけではない、ということが関係を産み出すわけだ。
 関係を確認する喜び、とりわけ男女にはそんなのがあるように思う。恋愛というのは関係を確認し続けることのようでもある。
 素顔はそのぎりぎりの境目だ。
 素顔の奥にも「あなたにしか見せない素顔」ももちろんある。けれど、だれにでも素顔を見せている、という言葉がちょっと面白くない。
 化粧をしないで素顔ですごす女性を恋人にもつと、ヌードダンサーを恋人にもったような複雑感情が生まれるように思う。
 少なくとも「裸を見る」という特権的行為が一般にも公開されていると、関係を確かめるために「裸以上」が必要になる。
 なるほど。そうか。恋愛というのは互いだけが知っている秘密の共有なのだな。
 どんなに境目の位置をずらしても、つねに「その先」はあるから、実はどっちでもいいような気もするんだけどね。逆にいえば、人はその先その先と追い求めることに疲れることもあり、たとえば、さっっさと裸になって開き直ったところから安らぎが産まれるということもある。
 さあ、これ以上先はないわよ、つきつめないで、いいかげんくつろぎなさい。
 裸や素肌に、そんなメッセージがあるのかもしれない。人間っておもしろい。
 とまあ、最近、化粧について続けていくつかネット上の書き込みを読んで感じたことを書いてみました。

化粧する女(2)

 化粧をする女と化粧をしない女のどちらがいいか、という永遠のテーマ(笑)がある。
 基本的に僕は努力と創造をリスペクトする。だから化粧をする人が好きだ。
 いうまでもなく二十一世紀、洋服は寒さを凌ぐ手段であるだけでなく、自分を表現する手段だ。同じように化粧は欠点を隠すものではなく、自分を表現する手段だと思う。化粧は新しい創造だと思う。
 あらゆる機会に自分を表現したい。そのスタンスがいいのだ。
 今日は素顔の自分を表現したい、と思えば、素顔に見える化粧をすることで、ほんとうの素顔よりも素顔らしい素顔ができるはず。
 化粧とはアートだから。
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 見かけに関して素顔のほうがきれいに見えるとしたら、それは化粧の技術が下手なだけ。
 上手な化粧なら、ちゃんと「きれいなスッピン」に見せることもできます。
 見かけではなく、肌の健康上の問題や、人間の心の問題はまた別だけど。
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化粧する女(1)

 電車の中で化粧をする女を非難する人がいる。たしなみに欠けるということなのだろう。
 ちゃんと家で化粧して出てくる人生の方がゆとりがあることはたしかだ。
 しかし、人生、のっぴきならない。
 睡眠時間三時間なら、五分でも余計に眠る方が化粧をするよりも妥当な時間配分だろう。
 では、五分余計に眠った結果、化粧をしないで家を出てきたとしよう。
 彼女は、身だしなみとして、化粧をするべきだと思っている。会社に着いたらすぐ仕事だ。だったら、電車の中で化粧をするか、一日中化粧をしないか、どちらかしかない。
 自分のあるべき姿にできるだけ近づこうとして、人は最善の努力をするべきだ。家で化粧ができなかったら、電車の中でするのは次善の策である。
 どこがいけないっていうんだ。
 人の努力を否定して足を引っ張ることはないじゃないか。
 自分の倫理観や価値観に合致しない人がいるからといって、その人の生き方をとやかくいうもんじゃない。(ていう意見も僕の価値観でとやかくいっているんだけどさ)

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定点観測:コットンマムその後

 場所柄をわきまえず高級志向に走りすぎていることで経営の先行きを心配していた(笑)コットンマムに先週再び行ってみた。
 野菜は以前から安かったのだけれど、オープン1週間ほどしても維持している。なかなか鮮度がよくて、このまま続いてくれればありがたい。
 魚は品揃えが落ち着いて高級から「ふつう」に近づいた。そのかわり、すごく美味しそうなにぎり寿司のパックがあったのが、そんじょそこらのスーパーの寿司になった。ちょっと残念だけど、まあ、スーパーのお寿司としてはむしろこうあるべきでしょう。美味しいものを食べたければ寿司屋にいけばいいのだから。
 肉類もちゃんと下は100g98円クラスのものから並べられるようになった。こうでなければ毎日の暮らしを担うスーパーにはならない。
 そもそもどんな素材でもそれぞれの利用方法があり、美味しい料理を作ることはできる。それが料理文化であり、暮らしの文化レベルというものなのだから、経済的に余裕があるからといって、高級食材ばかり使うとしたら、あまりにも知的レベルがお粗末というもの。(マズイ食材を美味しくする工夫こそがフランス料理をここまで磨き上げたんだし)美味しいものを知っていること、高い食材を買う経済力があること、というのが、毎日高級食材で美食をすることにダイレクトに結びつくわけではない。
(その上、この立地の近くのマンションはそもそも「高級マンション」ではない)
「いい店」というのは高級なものを売る店のことではなく、顧客の要求を高いレベルで満たす店のこと。フランス料理の店の方が立ち食い蕎麦屋より「いい店」であるとは限らない。だめなフレンチレストランもあれば、いい立ち食い蕎麦屋もある。ふつうに「高くて美味しい」のはあたりまえで別に偉くはない。安くてまずい店と店の価値は同じ。高いなら値段以上に「すごくおいしい」ときにやっと「いい店」になるわけだ。
 ときどき勘違いして高級なものを並べた店が「いい店」だと思ってお店を始める人がいる。住宅街にあるシロウトマダムが開く趣味の店(うちの近所にもけっこうあります)がその代表だけど、そういうお店はオーナーの自己満足(趣味)だからある意味、赤字でもいいわけだ。
 コットンマムがそのような店であれば短命に終わってしまうことは目に見えていたので、けっこう心配していた。開店1週間でそれなりに軌道修正が加わっていたのでちょっと安心。ひきつづき今後を見守りたい。
 さて、残るは乾物類。
 全体に有名なブランドを並べた、という印象。つまり、バイヤーが自分の舌で選んだ品揃えじゃないような感じ。よその高級食材点をみてマネをしているだけのようだ。
 紅茶なら「フォーション」「トワイニング」とデパートみたいなラインナップ。日常的に紅茶を飲む人たちに評価の高い日東のリーフティ・オリジナルブレンドなんかは置いてない。日東のこのシリーズはトワイニングよりも確実に美味しくて価格は半分くらい。
 さんざん「こだわりの品揃え」風なんだけど七味唐辛子はS&Bだけしかないとか。
 象徴的なのがSPAM。これはマズイけどアメリカ人は子供の頃から覚えている味なので港区の輸入食品店には必ずある。アメリカ人だっておいしいと思っていないからこそ、迷惑メールのことをSPAMというようになったりしているくらいで、アメリカの味だけど高級でもなんでもないわけで、外国人客が多いわけでもない立地でこのSPAMが妙に売り場で目立つというのも地に足が着いてない証拠。(まあ沖縄料理では何故か「ポーク」と呼ばれる定番の材料なのですけれどね)
 せっかく近くにできた店なので、いい品揃えで長続きしてください。コットンマム殿。
 (店長さんがここを読む可能性をいちおう想定しています)
 以上、経済小説 を書いている主夫、阿川大樹の提言でした。
 このブログのコットンハーバー関連のエントリーは ここ から。
 2006年11月18日の定点観測はこちら

報道こそ遵法精神をもて

 いくつかのメディアが高専での殺人事件で自殺した容疑者の実名報道をした。
 そもそも、実名であるかどうかで、報道の受け手から見た社会性、問題意識がかわるわけではない。かわるとすれば、容疑者に制裁的効果があるということだけ。
 つまり、実名報道は、のぞき趣味とリンチの欲求を満たすだけで、社会になんのプラスももたらさない。
 実名報道を選択したメディアは、少年法のあり方に疑問を呈している。
 つまり、自分が賛成できない法体系は、自身のロジックで無視してもよいのだ、という考え方である。
 ここにあるのは、法軽視、本音による建前の破壊だ。
 そうやって、建前を本音でなし崩しにする人によっていやな世の中ができる。
 本音はどうであれ、みんなが建前を守れば、もっとずっと温かい世の中になる。
 酔っぱらい運転にしても、「かたいこというなよ」という本音を平然と実行してしまっているからなくならない。どんなときでも法律を守ろう、とみんなが思えば、悲しい事故は減る。法律よりもそのときの個人的事情を優先し、法律を無視することが、事故を生む。建前を杓子定規に守れば、飲酒運転による事故は確実に減るのだ。
 法律は、本来、人に優しく、粗暴な本音から人を守ってくれるものだ。
 高専で殺人事件が起きたのも、 (もし彼が犯人であるとすれば)容疑者は、彼固有の事情による本音が(人を殺してはいけないという)建前をないがしろにした結果だ。
 殺人を動機で正当化することはできない。
 たとえ相手が殺してしまいたいほどヒドイ奴でも殺してはいけないのだ。
 生きていれば人を憎むことも殺したくなることもあるかもしれないが、それでもなお、どんなときでも、人を殺してはいけない。
 彼は人を殺してはいけない、という法律という形になった建前をあくまでも守らなくてはならなかった。
 もし、実名報道のメディアが殺人を憎むなら、少年法も大切にするべきだ。
 少年法がよくないと思うなら、それを改正するような報道をすべきなのであって、自分で少年法を軽んじてはいけない。法を軽んじるものに、法を犯すものを糾弾する資格はない。
 改正する努力をしないで、なし崩しに本音で報道してしまうのは、報道機関がとるべき行動ではない。
 少年法はオカシイから実名報道をできるように改正すべきだ、と報道するのが報道機関の本当の役割だ。
 報道機関ですら、こうして法律をないがしろにするから、意に沿わない法律なんて時と場合によっては守らなくてもいいのだ、という風潮がはびこってしまうのではないかと思う。
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 ちなみに、阿川の立場は、実名報道は「少年案件かどうかによらず、すべての犯罪報道で加害者も被害者も双方とも実名は不要」です。
 そういえば、被害者が「明るいよい人」だという報道もよくあるのだけれど、「暗くてイヤなヤツ」であっても殺されてはいけないのだ。
 被害者について「いかによい人だったか」という報道するのもどうかと思う。
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