日: 2022年1月18日

母の卒寿

午前中、Kino Cinema で映画「弟とアンドロイドと僕」。
ちょっと追いかけているテーマと共通するかなと思って見てみた。

役者と撮影にお金のかかった大学映画研究会の作品という感じ。
観念的で、嘘を信じさせるのに必要なディテイルが杜撰。
謎めいていて説明不足であれば芸術的で重厚だと思いこんでいるのかな、と言いたくなる。考えさせることと説明不足は違う概念。考えさせるには必要なリアリティを緻密に作った上で、意図的に説明の空白を狙って作ることが必要なのだ。

「究極の孤独」という触れ込みのマッドサイエンティストのロボット研究者が主人公。でも、こんなの「孤独」じゃない。他人から見たら孤独に見えるステレオタイプが描かれているけど、こういう人の日々は充実している。つまり、ステレオタイプから抜け出せずに深い洞察がない。単に研究者のことを知らなすぎるだけ。
どうだい孤独だろう、孤独は怖いだろう、と言いたそうだけど、それは単なる研究者への無理解だ。
(教室に入ってくるなり、黒板一杯に数式を板書して教室を出て行く、というところだけリアリティがあったけど、しかし、それはリアルで少しも奇異なことじゃないんだよ)
生涯劇場で見た映画の中でワーストスリーに入るかな。
ワーストは、宇崎竜童・梶芽衣子の「曽根崎心中」、これは始まって10分で席を立って映画館を出た。
次点はショーケンの「カポネ大いに泣く」。見ていて恥ずかしかった。

午後、ケーキを買って一人暮らしの母を訪ねる。
小さな卒寿の祝い。