報道こそ遵法精神をもて

 いくつかのメディアが高専での殺人事件で自殺した容疑者の実名報道をした。
 そもそも、実名であるかどうかで、報道の受け手から見た社会性、問題意識がかわるわけではない。かわるとすれば、容疑者に制裁的効果があるということだけ。
 つまり、実名報道は、のぞき趣味とリンチの欲求を満たすだけで、社会になんのプラスももたらさない。
 実名報道を選択したメディアは、少年法のあり方に疑問を呈している。
 つまり、自分が賛成できない法体系は、自身のロジックで無視してもよいのだ、という考え方である。
 ここにあるのは、法軽視、本音による建前の破壊だ。
 そうやって、建前を本音でなし崩しにする人によっていやな世の中ができる。
 本音はどうであれ、みんなが建前を守れば、もっとずっと温かい世の中になる。
 酔っぱらい運転にしても、「かたいこというなよ」という本音を平然と実行してしまっているからなくならない。どんなときでも法律を守ろう、とみんなが思えば、悲しい事故は減る。法律よりもそのときの個人的事情を優先し、法律を無視することが、事故を生む。建前を杓子定規に守れば、飲酒運転による事故は確実に減るのだ。
 法律は、本来、人に優しく、粗暴な本音から人を守ってくれるものだ。
 高専で殺人事件が起きたのも、 (もし彼が犯人であるとすれば)容疑者は、彼固有の事情による本音が(人を殺してはいけないという)建前をないがしろにした結果だ。
 殺人を動機で正当化することはできない。
 たとえ相手が殺してしまいたいほどヒドイ奴でも殺してはいけないのだ。
 生きていれば人を憎むことも殺したくなることもあるかもしれないが、それでもなお、どんなときでも、人を殺してはいけない。
 彼は人を殺してはいけない、という法律という形になった建前をあくまでも守らなくてはならなかった。
 もし、実名報道のメディアが殺人を憎むなら、少年法も大切にするべきだ。
 少年法がよくないと思うなら、それを改正するような報道をすべきなのであって、自分で少年法を軽んじてはいけない。法を軽んじるものに、法を犯すものを糾弾する資格はない。
 改正する努力をしないで、なし崩しに本音で報道してしまうのは、報道機関がとるべき行動ではない。
 少年法はオカシイから実名報道をできるように改正すべきだ、と報道するのが報道機関の本当の役割だ。
 報道機関ですら、こうして法律をないがしろにするから、意に沿わない法律なんて時と場合によっては守らなくてもいいのだ、という風潮がはびこってしまうのではないかと思う。
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 ちなみに、阿川の立場は、実名報道は「少年案件かどうかによらず、すべての犯罪報道で加害者も被害者も双方とも実名は不要」です。
 そういえば、被害者が「明るいよい人」だという報道もよくあるのだけれど、「暗くてイヤなヤツ」であっても殺されてはいけないのだ。
 被害者について「いかによい人だったか」という報道するのもどうかと思う。
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