オバマ大統領就任演説

 昨夜は、起きて生中継をみていたけれど、同時通訳でよくわからなかったので、英語で聞き直しました。
 
 http://www.asahi.com/international/090121douga.html
大雑把に言って、
「いま自分たちは、困難にあるけれど、自分たちの歴史を思い起こして、先人たちがやって来たことについて、我々は自信を誇りを持って、困難に立ち向かおうじゃないか、そうすればできるよ」
 内容的にはそういう話でした。
 いつもそうなのだけれど、(バカブッシュの演説ですら)大統領の演説を聞くと、感動するのですね。涙が出そうになる。
 それはアメリカという国の成り立ちと、彼らの教育と、スピーチライターという専門職の洗練された文章と、伝道師的伝統の英語の音楽的な言葉のリズムと、そういうすべてのものの重なり合わせだけれど、基本にあるのは当事者意識を皆が持とうとしている、もたそうとしていること。
 自分の国であり、自分の困難であり、自分の未来が自分の手にあるという基本構造。そしてそれが自由ということであり民主主義というものであると、つねに確認し続けていること。
 結果として、アメリカが行うことが世界を幸福にしないことはたくさんある。それはもうたくさん。
 けれど、大統領が替わってリセットがかかる度に、アメリカ国民はアメリカ合衆国国民であることを誇りに思い喜ぶチャンスをもつということだけは事実のようだ。
 一方、日本の政治の問題は、国民に当事者意識がないこと、政治家が当事者意識を持たせようとしないことに尽きるように思う。
 何もかも足りない困窮のなかから、経済が成長すること自体が幸福の増大に結びついていたときは、それで、だれも困らなかった。
 政治がいくらか失敗しても、だれかが私腹を肥やしても、みんなの生活が向上しているときは、多少のスローダウンも、取り分の不公平も問題にはならなかった。
 でも、いまのように困難に直面したとき、そのことはとても大きな障害になる。
 政治家が国民にわずかな負担を求めることすら困難になってしまっている。単純にたった数パーセントの税金すら上げられない。
 政治家と国民のあいだに信頼関係がないから、国民自身が自分の国を造り動かしているのだと思っていないから、自分の国の金庫に自分の財布からいくらか移動させるだけで、それは以前として「自分が主権者である自分の国のもの」であることにかわりはないはずなのに、税金を払うと云うことが、自分の財布から抜き取られ、自分とは関係のない財布に入ってしまうと思うのだ。
 誇りがあれば、自ら傷みを負うことができる。
 信頼されていると思えば、一緒に困難に立ち向かおうと言えるのに、「票を入れて戴く」「税金の負担をお願いする」あるいは「票を入れたらあとはだまって政治家に任せる」という構造だし、自分が主権者なのに被害者だと思ってしまっている国民は、国の困難や自分の困難に自分の責任を感じず、政治の責任を追求しては失望し、ますますしらけて何もしなくなる。
 僕は日本を好きだけれど、アメリカに大統領が生まれる度に、アメリカ人を羨ましいと思う。キューバの人を羨ましいと思うのと同じように。

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