日: 2022年4月4日

森美術館で Chim↑Pom展

 たくさんのことを考えたので長文です。

 一時間半くらいかけていろいろ考えながらゆっくり見た。
 アート界隈の外で生きていたので黄金町に来てしばらく経つまでこの人たちのことはまったく知らなかった。
 やがて名前だけ知ることになり、歌舞伎町ブックセンターで手塚マキさんと対談した夜、ゴールデン街に手塚さんの奥さんのエリイさんが合流して少し話した時にも Chim↑Pomの作品はほとんど知らなかった。
 その後、ブックセンターのビルを取り壊す前にビル全体を作品にしていて、面白さと疎外感の両方を同時に感じたのが作品と対峙した事実上の初体験だった。

 広島で物議を醸した「ピカ」のことを知ったのもそのころだ。
 今回、「ピカ」の経緯について詳細に誠実に説明がされていた。
 被曝当事者の大きな負の思い出や体験と、問題を作り出すことで人々を考えさせる現代アートの関係がよくわかった。Chim↑Pomは真面目だ。
 原爆の体験は無いけど、僕は津波や原発事故直後の宮城福島に行って時間を過ごして、かなりのショックを受けていた。当事者的な感覚を持つまで自分で体験しようとして東北の地に立ったから、アーティストが原発事故を扱った作品を見るとたいてい愉快な気持ちにはなれない。

「意識されないことに意識を向けさせる」という表現者の行為は当事者とそうでない人とでは意味が大きく異なる。

 前にも書いたけど、9.11 では、僕はすごく精神的ダメージを受けていたから、毎年「忘れてはいけない」みたいに思い出させられるのはとてもつらくて嫌なのでテレビは見ない。
「忘れさせない」「思い出させる」「考えさせる」という行為は基本的な表現する側のとても傲慢な行為だと思っている。忘れようが何を考えようが大きなお世話であって、誰であろうと他人に「考えさせ」られたりするのはまっぴら御免だ。
 他人に「考えさせ」られなくたって、津波も原発事故も原爆も戦争も貧困も自由と権力についても、サッポロ一番の値段と小麦の価格と食糧自給率と戦争と国際資本と労働搾取とか……すべて自分で考え続けて生きている。そして、考えれば考えるほど、考えることはつらい。でも、考えなくてはいられないから考えている。
 その意味では「考えさせる」アートは僕にとって相容れない性質を持っている。
 人はそれぞれ、考えたいこと考えたくないことそれぞれに抱いて生きている。広島の人が空に描かれた「ピカ」の文字に怒るのはよくわかる。だって、そんなことアーティストがわざわざ何かをしなくたってしょっちゅう考えているに決まっている。大きなお世話なのだ。
 では、ふだん考えていない、当事者ではない人々には、さまざまな大きな問題について「考えさせる」べきなのか。
 報道の人は「災害、戦争などを忘れないことでそれを繰り返さない」ことが重要だと考えているらしく、多くの人もそう思っているようだ。

 僕は人間をそんなに信じていない。
 そんなことをしてもどうせ忘れるし、忘れていなくても、人間はどうせ戦争をするし、事故を起こすし、災害で逃げ損なってたくさん死ぬと思っている。歴史がそう教えてくれている。
 アーティストは報道とちがって通常「考える」先までは踏み込まない。
 考えることは良いことだから、考えさせるのもたぶんよいことだ。しかし考えたくない人は常にいる。必ず考えなくてはいけないわけではない。人間はだれでも考えず、あるいは愚かなまま生きる権利がある。
 別に、目覚めなくても、考えなくても、権力のいうままになっても、また戦争をしても、崩れそうな崖に建物を建てても、そういうものだからそれでいい。僕はそう思う。
 自分は自分で考える。
 それぞれ少しでも良くなるように考える。でも、みんなが同じように考えなくてはいけないとは思わない。何も考えずに生きたっていい。むしろそれを他人からとやかく言われることがあってはいけない。
「搾取に気づく」必要もないし、結果的に事故や戦争を繰り返したっていい。みんなが同じようにひとつのことを「こうあってはいけない」と考える世界より価値観も関心も違う人が混じっていることが人間の社会の有り様だと思う。
 その代わり、考えた結果も考えなかった結果も、すべて自分で受け入れるのだ。

 Chim↑Pom展に入ってまもなく解体した建物の廃材を使った作品群が並んでいた。
 僕はそれを面白いと思うと同時に、なんだか心が痛かった。その原因が分からず、随分長い時間そのあたりをうろうろした。
 その理由は、帰宅してニュースを見てわかった。戦争で破壊されたウクライナの風景と同じだった。意識していなかったけど僕は既にたくさん体験していて傷ついていた。なので、無数の廃材の山を見て「ピカ」を見た広島の人と共通した感覚を抱いたのかも知れないと思った。

 Chim↑Pom展には、表現のインパクトと表現への真摯な姿勢があった。同時に表現のもつ心への暴力性があることをはっきり知った。優れた表現の暴力の程度はアカデミー賞の平手打ちを遥かに超えている。
 表現は、それが暴力である限り、いつも許されるわけではないだろうとも思う。ただ、許す許さないを決めるのが特定の誰かではない、ということだけだ。

 良い展示なので、ぜひみなさん見に行ってください。
 僕は、東京中をカラスを引き寄せながら走り回っている馬鹿馬鹿しいビデオが一番好きでした。